元々ブランデンブルク辺境伯の領域は決して豊かなものとは言えなかった。
地域の貴族や聖職者、盗賊騎士らが幅を利かせており、当主の権限は不十分だったのだ。
そこでフリードリヒ2世は新たな政治機構の育成を宣言する。
彼は次に外交に目を向ける。
目下、ブランデンブルク選帝侯は南のボヘミアやマルデブルク司教、東のドイツ騎士団などと対立している。
今後の野望を実現するために、ひとまず神聖ローマ皇帝のオーストリア大公、ザクセン選帝侯、ポーランド王との協力体制を表明した。
強力な同盟者を得たならば、次は戦争である。
折しも北のポンメルン公は孤立ぎみであったので、フリードリヒ2世はポンメルンの全土征服を掲げ宣言。
程なくしてこれを併合する。
次にポーランド王を誘ってドイツ騎士団を挟撃。
ダンツィヒ・ケーニヒスベルクを割譲させる。
以上の二つの戦争を経ても陸軍は健在であったので、更にメクレンブルクに宣戦、併合する。
この頃のブランデンブルク軍は決して精強とは言えなかったが、弱小諸侯に後れを取ることは無かった。
しかし、急速なブランデンブルクの拡張は北ドイツに緊張状態を生むこととなる。
次代のヨアヒム1世より先は、拡大による外交関係悪化にも対処することも必要になった。
さて、ちょうどフリードリヒ2世の死去した後、ポーランドが再びドイツ騎士団に侵攻する。
これに対し次代ヨアヒム1世は形式上参戦を表明するもあまり真面目に戦わず、
占領地の殆どはポーランド王のものとなった。
これによりポーランドは更なる拡大を遂げるも、ドイツ諸侯との関係が崩壊。
マグデブルグ司教を旗印に対ポーランド懲罰戦争が行われる。
この懲罰戦争にはオーストリア大公、バイエルン王も参加していたためヨアヒム1世は参戦を拒否。
ここにポーランドとの協力体制は消滅した。
有力な同盟国ポーランドを失ったわけではあるが、ホーエンツォレルン家は既にカルマル連合と同盟していた。
従ってブランデンブルクが第二のポーランドと化す可能性は極めて低く、西方への伸長を狙える状況。
そこでヨアヒムは同盟国と共にブラウンシュヴァイク公に宣戦、その本拠地を奪う。
懲罰戦争は当然ドイツ諸侯連合軍の圧勝に終わり、マゾヴィアやガリツィアに独立政権が発足。
程なくしてブランデンブルク戦後に復興したボヘミアがポーランドに侵攻。
更には宗主国を見限ったリトアニアが反旗を翻し、かつての東欧の大国は見る影も無くなった。
追い打ちをかけるようにマゾヴィア政権が新選帝侯フリードリヒ3世を誘い、ポーランドに宣戦した。
時は1501年、マルティン・ルターが九十五箇条の論題を発表し、いわゆる宗教改革が始まった。
フリードリヒ3世はこの新しいキリスト教に深く共鳴し、ポーランドと即座に講和・新教への改宗を宣言する。
宗教のために戦争が行われる最後の時代、”改革の時代”は近い。
発見の時代末期の地図。
ポーランドが崩壊。ブランデンブルクは一定の領土を手に入れるも、プロイセン回収には至らず。
ドイツ騎士団の衰退を背景にデンマークが旧リヴォアニア騎士団領を併合している。
皇帝オーストリアはハンガリーを同君連合に組み込み、帝国南部の一大勢力を成している。