AAR/Exploration Way of Byzantium
Manuel3世(3/2/4)の死後、摂政期間を経てIoannes10世(3/2/5)が1606年に即位した。この時期にもなると代々の皇帝の在位期間も長くなり、40年は当たり前に超えるようになっていった*1が、これはヒポクラテス*2・ガレノス*3より続く東ローマ帝国の伝統ある医学が、西アフリカ・東アフリカのそれと結びついて急速に発展したことが原因として上げられる。古代よりしばらくの間発展を見なかった医学がこのような形で発展を遂げたことから、東ローマが影響を一方的に与えたのではなく、征服地からも影響を大きく受けているのは間違いないだろう。
さて、Ioannes10世の主な実績であるが、その内容をとても簡潔に言うならば、それは「正教徒革命」の進行である。革命といってもこれは決して帝政を打倒するなどという愚かな革命*4ではなく、正教圏の大幅な広がりを示す言葉だ。
具体的に見ていくと、Ioannes10世が進出した地域は今までの皇帝時代に征服した地域とはくらべものにならないくらい広い。例えば、マダガスカル島やその周辺の島にのみ影響力を持っていた正教圏は、キルワの打倒により島からアフリカ大陸本土*5の東にまで広がった。副産物として、そこはイスラーム商人達の交易ルートの西側の終着点*6であったため商業が非常に盛んであり、そこを抑えることにより必然的に帝国に莫大な利益をもたらした。皇帝は交易収入の数パーセントを納税させる代わりにイスラーム商人の商業活動を保護しており、この体制は現在でも引き継がれている。
さらに、西南アフリカに存在していた「コンゴ国」にも領土を広げた。この地域の国と東ローマ帝国との関係はもともと悪く、「Ioanness8世の聖遷」*7の直後に領土の拡大を模索していた東ローマ帝国に危機感を抱き、西アフリカ諸国と同盟を結ぶことでその勢力を抑えようとしていたようだが、聖遷から200年弱を経て強大化した東ローマに対抗できる手段を持ち合わせなかったため容易に征服された。しかし、コンゴ国はイスラーム教の勢力下ではなく宗教としての体系が明確ではない呪術信仰*8の国であったため、長い歴史を持つ正教が広まるのは極めて早く、現地住民は征服というよりも文明国のローマ帝国に組み込まれたとの印象を受けているようで、それほど大きな反乱は起きなかった。
またなんとこの皇帝は東南アジアの「スマトラ島」にまで領土を獲得した*9。この地域は、ザンジバルから見て先ほどお話したイスラーム商人の取引ルートの「反対側」にあたり、交易活動にも多大な利益をもたらすかのように思われたが、実は後から見るとこの領土拡張は失敗であったことは誰もが認めるものである*10。
このような大拡張の大義名分は共通して「正教圏を広める・正教を布教する」*11というものであり、また征服後の統治に正当性を与えたものでもあるが、このまま拡大し続けると、かの「オスマン帝国」と接する日がいつか来るだろう。
同じように北ヨーロッパでウラル山脈以東に正教圏を拡大していた「ロシア帝国」も同じ問題に衝突していたようで、一度オスマン帝国と戦火を交え敗北していたようだが、東ローマ帝国の躍進を受け、使者を派遣するなどの交流も盛んになった。このまま東ローマとロシアが同盟を結べばオスマン帝国を南北から挟む形になるのだが、それに危機を抱いたオスマン帝国は使者の艦隊を妨害するなどの対応をとっていたため結局この同盟が成立するのはしばらく後のことになった*12。
東ローマ帝国の領土が徐々に広がり、距離的な意味で元のギリシアの地に近づくにつれて、帝国民にはある感情が共有されるようになった。「ギリシアの地に取り残された同胞をあのオスマン帝国から救出しよう!」*13というものである。その「同胞」は「Ioanness8世の聖遷」に従わなかったギリシア人として蔑まれた時期もあったようだが、ギリシアの地を守り続けている人民として今や尊敬の対象にすらなっていた。当時のある文献にはこう記載されている:「・・・ヘラスに取り残されたギリシア人よ、我々はいつの日か糾合されるだろう。我々は再び一つのローマ帝国民となるのだ。それが全ギリシア人に共通する『明白なる天命』であり、共にその天命を妨げるものを打倒しようではないか―」
ここだけの話、第6話を終わった時点で1700年の対オスマン戦前夜まで書くつもりだったのですが、書いている途中でそこまで行くとあまりにもSSと内容が多すぎることに気づいたので急遽6話と7話で分割することにしました。気づいたときにはタイトルを変えるのには遅すぎたため、本来であれば「オスマンと領土が接していよいよ戦争だ!万歳!」が「正教徒革命」の意味になるはずでしたが、それだと内容的に矛盾が生じるので「アフリカへの正教の拡大」を革命ととらえることになってしまいました。なんだかんだ言ってそっちのほうが言葉的にしっくりくるよなあと後から思ったのは内緒
第7話は内容が無いよう拡張ばっかりで本来1話に収まるところを2話にして薄めているので若干物足りないかもしれません。
ここでは前回の終わりの1630年から1700年頃までを書く予定ですが、この70年であのか弱かったビザンツちゃんはおよそ小学生から高校生になるくらいの変貌成長を遂げます。現状把握のために再度画像を再掲載しておくので、読み終わったら下のほうにある1700年くらいのSSと比較してみてください。
(第6話のものと同じ、画像は1630年のもの)
書くのを忘れていましたが、InstitutionのGlobal Tradeはこの時点で受容済み。もともと受容が簡単な部類のものなので特に書くこともないでしょう。
問題なのはアイデアで、今回のプレイを通じて取得したアイデアは以下のようになりました。
個数 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
元々とる予定だったもの | Exploration | Religious | Quantity | Influence/Administrative | Influence/Administrative | 未定/軍事系 | 未定 | 未定 |
実際に取ったアイデア | Exploration | Religious | Quantity | Offensive | Administrative | Quality | Trade | Diplomatic |
進めたレベル | 7 | 7 | 7 | 7 | 3 | 7 | 7 | 2 |
先に行っておくと最後のアイデアを取るころにはすでに消化試合だったのでDipを取った特に理由は無いです。
で、上の表を見ていただければ分かるのですが、今回は2点予定とずれたところがあります。それは、
であること。1つ目の予定違反が起きた理由として、4番目のアイデアを取るときにAdm点やDip点が無い代わりにMil点がたまたま余っていたことが挙げられます。
↓問題のシーン(1618年)
またAdmアイデアを3止め*14した理由は単純にAdm点が枯渇していたですが、君主点(特にAdm)が枯渇した理由はどこかに書いておいたはずですがもう一度言うならば
ことでしょうか。そもそもビザンツで新大陸に逃げるというプレイ自体かなり無理のあるものなので財政面が非常につらく、アドバイザーを雇えるようになる時期がかなり遅かった以上君主点が無さすぎるのは仕方のないことでしたが、Devポチ(特にCape)で使ったAdm点をMil点で賄っていればAdmアイデアを7まで取れたはずでした。
いかにAdm点が足りなかったかについては1618年になってやっと4つ目のアイデアを開放しているところから分かると思います*15が、オスマンと戦争をする上ではAdmアイデアの傭兵系バフは欲しくなってくるし、何といっても最後のState+5は経済的な恩恵も高いのでやはり最後まで進めるべきでした。
もっとも、傭兵うんぬんに関しては結局傭兵を使わないことで対策した*16のですが・・・
さて、結局のところInfluenceを取らずAdministrativeを最後まで進めなかったことで起きた一番の害は一体なんだったのでしょうか?コアなEU4ゲーマーなら即答できると思いますが、筆者のような300時間しかやってないにわかにはプレイ中この答えがわからなかったのでしょう。
それは、「属国の併合が遅すぎる・コストがかかりすぎる」ということ。
一例として、1616年に作成したJenneを見ると、結局併合したのは1696年で、コストはDip点1000くらいかかっています。
つまるところ、「属国一国が外交関係枠を長く占拠する」→「新規征服地で既存の属国に渡せないプロビに属国を作れない」→「属国併合によるコア化がやり辛くなる」→「結局自力でコア化してしまう」→「Adm点の喪失」
してしまうのです。属国をプロビを与えてどれくらい太らせるかについては人それぞれだと思いますが、太らせるならInfluenceはほぼ必須、できればAdm+Infのポリシーも欲しいです。
Influenceアイデア3つ目で属国併合コスト-25%・Adm+Infのポリシーで-20%のバフがかかるのは*17勿論のこと、InfにはDiplomatic Reputation +2があり外交併合そのものを高速化できる*18ほかDiplomatic Relations +1もあるので複数の属国を平行して持ちやすくなります。
個人的にInfluenceアイデアの本体はAE-20%でHRE外だったらいらね!みたいに思っていましたが、今回のプレイで拡張プレイにはほぼほぼ必須であることがわかりました。始めたばっかりの初心者には効果が分かりづらいアイデアですが、是非今回のAARを見て拡張プレイのときに間違ってもこれを取り忘れないような方が増えていただければ幸いです。
英wikiからの引用:
It is recommended to try and only annex vassals when taking Influence ideas as the cost will be 25% less; for a bigger discount, adopt the Vassal-Integration Act policy (requires Administrative Ideas completed in addition to Influence Ideas).
訳:コストが25%引きされるためInfluenceアイデアを取ったときのみ属国を外交併合するのが望ましい。また、より大きな補正を得るのならば、Vassal-Integration Act policyを導入しよう。(Influenceアイデアに加えてコンプリートしたAdministrativeアイデアが必要)
上記のように問題点こそありましたが拡張自体は順調にすすみました。
なお、この時期に入ると西アフリカ諸国も西欧の国々と同盟を結び始める*19ので、やや手を出しづらくなります。ただスペインと同盟を結んでいるので手出しが全くできないというわけではなく、とりわけ問題にはなりませんでした。
この通り1653年までは順調だったんです。
1653年、Ioannes10世(3/2/5)が崩御し、Ioannes11世(6/4/4)が即位。文句なしの高能力君主で当然ながら今回のプレイにおいては君主点的には最優秀でした。
さて、勘がいい方ならこの君主が抱える大問題についてはもうお気づきでしょう。ヒントは上記SSの中に隠されています。
正解はこれ↓
Ioannes10世はイベントで登場した、「能力は優秀だが継承権が弱い」君主だったんです。164.jpg(ここから数えて下から3つめのSS)を見るとわかる通り即位するとLegitimacyが20まで落ちていることがわかります。
さて、これの何が問題かについてですが、それは
OEを10%以上抱えるとDisaster(Civil war)が進行する状況を作ってしまったということです。このDisasterが起きる条件としてLegitimacyが50以下であり、非海外州のAutonomyの平均が30以上である必要がありますが、Legitimacyの条件は満たしており、この時期にはStateをあまり作っていなかった*20のでAutonomyの条件も満たしてしまっています*21。現状のビザンツはDev値こそは一丁前ではあるものの、国力は見た目に反してかなり弱く、1個Disasterが起きると国が崩壊してもおかしくないレベルでした*22。したがって、この君主が在位している間はOE10%以上の拡張はできないこととなり、対オスマン戦に備えて国力を拡張したいこの時期には痛すぎるものとなってしまいました*23。
1669年にIoannes11世が崩御し、ハプスブルク家*24のMaria Teresa(0/0/3)の摂政機関に入ります。Admが6から0になったのは見た目上相当なものですが、それでもLegitimacyが回復するのは精神衛生上かなりよろしかったと記憶しています。実は、この人、後のビザンツにとって(ロール)プレイ上相当大きな意味を持っていたのですが、それはまた後の話。
そういえばこんなDecisionもあったんですね。効果と費用が全く釣り合ってない気がしますが・・・
さて、無事にOE10%以上の拡張はできないという足かせから解放されたので拡張を再開していきます。指針としては、
の三本の矢三大指針で行きます。
※1個目のSSのZazzauはビザンツの属国。次のSS(172.jpg)では併合済み
本来の拡張計画ではアラビア半島まで進出して東側からアナトリア付近でオスマンに接する予定でしたが、予想以上にオスマンが拡張してきたのと時間の都合上このような指針となりました。
1個目ですが、これはサハラ砂漠の2つのプロビを植民することで北アフリカに直接行けるようにし、Tunisからプロビを奪ったうえでオスマンと接します。もちろんこのためにColonistを最低一人は持っておく必要があったため、結局最後までExplorationアイデアは破棄*25しませんでした。
さて、ここからはただの拡張なので前話と同様垂れ流しでご覧ください。
ビザンツの旧大陸側の主な国土は以下のようになり、収入や陸軍の規模等も大きく伸びました。
(画像は1700年付近のもの)
上のほうの1630年時点のものと比べると大きく成長したことがわかります。ただ、いずれにしてもオスマンには遠くは及ばないんですが・・・
また、Absolutismもどうにかこうにか60付近まで伸ばし*26、ロシアとも同盟を結び、スペイン-ロシア-ビザンツでオスマン包囲網を作ってオスマンとの最終決戦に備えます。
あとは、1702年についにDipがレベル23に到達し、Imperialism CB*27を獲得しました。これで準備は万端だ!
前話かどこかで、「東南アジアに植民したのは失敗だった」と書きましたが、その理由はこれです↓
※同じく東南アジアに植民したスペインにより現地の国家への戦争を強要要求され、結局ビザンツ側は軍を派遣できないまま現地国家(Pasaiなど)に植民した領土を奪われた図
東南アジア諸国は見た目に反して実は物凄く強く、ビザンツの海軍では到底太刀打ちできず陸軍を派遣できないままなすすべなくやられてしまいました。
あのあたりはゲーム終盤になるとやたらDevが伸びているのでそれも影響してますかね・・・啓蒙主義がボルネオ島で起きるなんて日常茶飯事ですし・・・
このイベントは初めて見ました。イベント文を見ると屈指のネタイベントのように思えますが、ネタの見た目に反して効果はかなり大きく*28、なんとこれを許可すると共和制に移行します。
あとは今までは言及してきませんでしたが、政体は最後までデフォルトのままになりました。理由はAdm点が足りなかったからですが、余裕があれば管理君主制とかに変更してもよかったかもしれません。
いよいよオスマンとの最終決戦の時期が近づいてきました。まだ力不足感は否めませんが、時間の都合上ここで挑まなくてはなりません。同盟国もフル動員してなんとか勝ちをもぎ取りに行きます。
上のほうの画像でオスマンの陸軍量が写っていますが、だいたいスペイン+ビザンツ=オスマンぐらいの力の差であり、そこにロシアを足せば何とかなる*29と思います。
なお、君主ですが、Ioannes10世(3/2/5)→Ioannes11世(6/4/4)→Maria Teresa(0/0/3,摂政)→Theodora3世(4/3/2)と移っていきます。正直この辺りの年代になると君主点は割とどうでもよくなるので能力的に0があろうが(Disaster等を除けば)あんまり関係はないとは思います。
ちなみにこの後君主関連で今回のプレイでも(ロールプレイ的に)最大規模の事件が起こりますが、それは次話で話すことにしましょう。