征服事業で名高いIoannes9世(3/1/3)も晩年には業績に恵まれなかった。
同皇帝が1536年にマリ王国から奪った西アフリカの海岸の州の一部はキルワへの遠征中に奇襲を受けたことにより奪還され、
さらにそのキルワへの攻撃も長年の間比較的温厚な関係にあったオスマン帝国からの圧力を受け失敗。
百年ほど小康状態を保っていた東ローマ-オスマン帝国の関係がここで急に悪化した原因として、皇帝によるアテネ公国の直轄領化がオスマン帝国を刺激したのではないかという見方が現在では一般的である。
失意のうちにIoannes9世は1558年12月8日に崩御。輝かしいその功績に反して最期はひどく寂しいものであったといわれている。
後を継いだのはManuel3世(3/2/4)。「第四のローマ時代」*1の皇帝の中では2番目に在位期間が長いことで有名である*2。
彼に関してはエピソードに事欠かないため、著明なものを一つ挙げておこう。
それは皇帝在位2年目で発生した「第二次対オスマン戦争」である。この戦争は地中海・東ヨーロッパ世界においてオスマン帝国の覇権が確固たるものであることを全世界に示される機会となったものとして知られている。
なお、オスマン帝国側の呼称は「アテネ征服戦争」*3であるそうだが、東ローマ帝国が国力上圧倒的にオスマン帝国を凌いでいる現在ではこの呼称は世界標準では非公式のものとして扱われる。
ともかくこの戦争の意義としては、「東ローマ帝国とスペイン帝国の関係がより強固なものとなった」ことがあげられるだろう。
当時ヨーロッパ世界では唯一オスマン帝国と対等に渡り合えるだけの国力を備えていたのはスペイン帝国のみ*4であり、
オスマン側としては地中海地域の征服事業を完了させる上ではスペインだけが障壁であり、当然ながら東ローマ帝国もスペインに頼った。
戦争の構図は極めて単純で、オスマン帝国 VS 東ローマ・スペイン・ポルトガル+それらの国の属国や植民国家 であったため、一見すると東ローマ側のほうが有利に見える。
しかし東ローマ側の陣営は海軍量こそはオスマンに対し優位を保ってはいたものの、陸軍はなんとオスマン側のほうが圧倒的に多く、東ローマ側の敗北は誰の目から見ても明らかであった。
Manuel3世は戦争を長引かせるのは一方的に不利益を被るだけと判断し、早期の講話を目指したものの、オスマン側は東ローマ帝国とスペイン帝国との同盟破棄を要求しており、かつての「Ioanness8世の聖遷」*5を援助したスペインとの同盟を切ることは、誇り高いローマ帝国民には耐えがたく、皇帝もそのことを理解していたためある程度の戦果を挙げたうえでオスマンとの講和に臨むことにした。
父Ioanness9世とは違い親征をそこまで好まなかったManuel3世は、Petros将軍(1/1/5/0)を派遣しすべてを彼に一任。オスマン帝国がスペインに対する優位を示すためにスペイン皇帝が同君連合下に置いていたナポリ公国に攻め入ることが予想されたため、将軍はイタリア半島内で陣営を張った。
海軍量不足からオスマン帝国は一度に大規模な部隊を上陸させることができず、中規模の部隊を複数回に分けて上陸させる戦術を取ったが、これが命運を分けた。
この将軍の最大の功績は「Lucaniaの戦い(1563)」にある。要塞包囲に失敗したオスマン軍の敗走の知らせを聞いた将軍は、イタリア半島南部のLucaniaでオスマン軍を追撃した。
孤立したオスマン軍の士気は低く、軍量的にはほとんど同数であったものの、なんと東ローマ軍はこのオスマン軍を一人の犠牲者も出さずに壊滅させた。
この戦いは効率的な包囲戦の一例として今や全世界の陸軍学校の教科書に掲載されており、しばしばあのハンニバル将軍の「カンネーの戦い」*6と比較される。
この戦いを受けて皇帝はいよいよオスマン側との交渉を行うことにした。依然として圧倒的優位を保っていたオスマン帝国であるが、これ以外にもイタリア半島の戦いで幾度も敗れていたために講和に応じざる負えなかった。
スペイン帝国との同盟の破棄を求めたオスマンに対し、直接講和会議に赴いていた皇帝はこれを一蹴。賠償金と領土の割譲こそは強いられたものの、皇帝の圧倒的態度にオスマン側の交渉団も屈せざるおえず、東ローマ側の被害は最小限にとどめられた。
皇帝の在位期間は波乱も起きた。
イベリア半島で共存していたポルトガル・スペイン両国は「レコンキスタ」当初からの友好国かつ同盟国であり、今後もその同盟は持続されるかと思われたが、なんとスペイン帝国がポルトガルに宣戦布告*7。その理由は今日でも明らかにはなっていないが、およそ50年前のMaria*8の治世が影響しているという見解が有力である。
それは、彼女が行った「Blasphemy Act」*9がカトリック国のスペイン人の感情を傷つけたというもの。東ローマへの移住の際カトリックから正教に改宗したMariaであったが、その後は敬虔な正教徒になっていた。東ローマ国内・国外にて正教の普及に努めた彼女であったが、出身国のポルトガルはこれにある程度寛容であったのに対し、スペインは批判的であった。というのも、ポルトガルはこの時期アフリカ北部のイスラーム教徒勢力との共存を図る動き*10を見せており、異端・他教への態度を和らげていたのでとりわけ大きな問題にはならなかったが、レコンキスタの成功によりさらにカトリックへの宗教熱が増していたスペインはこの動きに批判的になるのも当然で、もともと正教を守り続けていた東ローマ帝国やパレオロゴス朝の皇帝には尊敬の念を示して宗教的な批判は行わなかったが、ポルトガル出身の皇后には冷たい態度で接したという。
さらに、先の「第二次対オスマン戦争」ではポルトガルはほとんど軍を派遣せず、ヨーロッパ世界の共通の脅威であるオスマン帝国とむしろ協力するのではないかという疑念も芽生え、ついにスペインは攻撃に走ったのではないかともいわれる。
いずれにせよ、東ローマ帝国の最大の敵はオスマン帝国であり、先の戦争で多大な犠牲を払いつつも東ローマ帝国に協力してくれたスペイン帝国の援軍要請を断るわけにはいかず、皇帝はポルトガルとの同盟を切る選択をした。同皇帝の自伝『ローマ帝国皇帝・40年の苦難』*11によると、「100年前好意で助けてくれたポルトガル市民には会う顔もない。しかしここでスペイン帝国からの要請を断ると今度は当時のカスティリャ王国市民をも裏切ることになる。どちらを選んでも恥辱しか残らない。しかし決断しなければならない。」とあり、当時の皇帝の心境が伺える。
その後の皇帝は一層征服事業に打ち込むようになっていった。一度は悲しみのあまりマリ王国に対し無謀な作戦を行い惨敗するが、結局は最終的に勝利。さらに西アフリカで最大の勢力を誇っていたソンガイ王国をも打ち破りこの地域での覇権を確実なものとした。
もはや西アフリカに東ローマ帝国に匹敵する勢力がいなくなり、皇帝の次の目標は東アフリカ、また北アフリカに定まった。いつかは元のギリシアの地、さらには小アジアまで・・・
Quantityアイデアをコンプしたことにより西アフリカどころかアフリカ大陸全体を見てもオスマン以外敵となるような勢力がいない状況となりました。
正直ここから100年はひたすら拡張し続けるだけで見栄えもしないので一気に進めていこうかなと思います。
Religiousアイデアのコンプで手に入る聖戦CBで宣戦布告ができるようにIncaの横に植民をします。
このあたりのプロビンスは金山があり、植民国家を形成すると結構な頻度で金山由来の資金を送ってくれるのでいまだに財政難のビザンツにはとてもありがたいことです。
しかしこれ、後で見返したら全く意味のないことだった*12。
東アフリカのZanzibarトレードノードは入4出1のかなり優秀なトレードノードで、しかも下位ノードがビザンツが簡単に抑えられるCapeである以上少なくとも首都のCape Verdeが属するIvory Coast(入4出4)よりは資金回収がしやすいところなので、このあたりを征服してメインポートを移転し収入の増加を図ります。
もちろん入と出の数だけでトレードノードを評価してはいけないのですが、アフリカ全体で一番「強い」トレードノードはZanzibarで間違いはないと思います。
他に強そうなノードと言えばAlexandriaですが、そこはGenoa、Venice、Constantinopleの地中海3強トレードノードに引っ張られる以前にそもそもオスマンorMamluksを倒さないと入手できません。
もっとも、このZanzibarですらTrade Valueの関係上アジアから十分に引っ張ってこれなければヨーロッパノードには劣ってしまうんですがね・・・それでもIvory Coastよりはマシ。
というわけでKilwaに宣戦布告し、
適当にぼこして、
3プロビ奪って講和。Pateに隣接するプロビを奪って聖戦CBを使えるようにし、かつCoastal Center of TradeのZanzibarプロビンス(島。このSSだと若干分かりづらいが、132.jpgを見るとよくわかる)を奪います。
また、ここで気づいたのですが、なんとTrade Efficiency*13が1%だった。EstateのBurghersでマイナス補正がかかっているのが主な原因なので、貿易収入に依存する頃*14になったらBurghersのLoyaltyには気を付けようと思いましたまる。
(※画像は1595年のもの)
もうね、こんなんで普通1項目作るかとか言われるかもしれないけどね、これ本当に長かったんだよ許してくれよう・・・
1511年に取得(第三話参照)してコンプリートに80年かかってるわけですから2800adm点を捻出するのにどれだけ時間がかかってるんだって話ですね。Relアイデアのコンプは基本的に優先度が高いのでなおさら。
しかも決して技術を優先していたわけでもなくadm技術もヨーロッパに比べたら遅れまくってる*15わけですから絶対的にadm点が不足していたと見て間違いないでしょう。
というのは半分正解で半分間違いである。実際のところGC開始時(1444年)からManuel3世の崩御(1603年)まで統治期間を考慮して歴代君主のadmスキルの平均を求めると2.2程であった。それに加えてアドバイザーを雇う余裕が全くないのでadm点はここまでデフォルトの+3と君主の+2.2で10000点ほどしか入手していないことになる。さらに技術やdevポチ、No CBで減少したStabilityの復旧やコア化コストを考えると2800adm点なんて払う余裕がマジでない。ない。君主や後継者を廃嫡すればいいんじゃないかと思うかもしれないが、オスマンにコアプロビンスを奪われていて毎年のPrestige増加にマイナス補正がかかっているビザンツにとってPrestige-50は本当に痛すぎる。
間違いのほうは何かというと、筆者のadm点の使い方が荒すぎたこと。序盤で主力の収入源となるTaxationを増やすためにDevポチの段階でadm点を優先的に使っていたが、これが大きく響くことになった。属国にコア化させてDip点に負担を逃がす必須テクニックに関してはそれなりに行っていたつもりではあるが、実は筆者はカスタム国家で6/6/6Immortal君主プレイばっかりやっていたので君主点の価値をかなり見誤っていた。 まあでも6/6/6Immortalは面白いからおすすめだよ!
アイデア関連でもう一言付け加えるとしたら、ここまで触れてこなかったがビザンツのNIはかなり強い。
6番目のDiscipline +5%は当然強いとして7番目のMissionary Strength +3%はReligiousアイデアのそれと同効果であり、NIで+3%の補正がつくのは実は唯一ビザンツのみ。
特筆すべきはTraditionのTolerance of the True Faith +3(≒正教プロビンスのUnrest-3)で、前述のMissionary Strength +3%と同様に、+3の補正がつくのはビザンツのみであり、正教プロビンスで不穏度を大きく下げる。
ここで正教はもともとの効果でTolerance of the True Faith +1があり、Religiousアイデアでも同様の効果があるので合計でToleranceに+5の補正がつく。
さらにさらにデフォルトで+3の補正があるほかLegitimacyでも最大+1まで乗るので、事実上、「正教のプロビンスでは何もしなくてもUnrest-9」。これが弱いわけない。
これに加えて正教のIconの一つにUnrest-2が存在し、アドバイザーでもUnrest-2ができるので、簡単にUnrest-14を達成できる。これは後半の大規模拡張で反乱祭りになるのを防げるということ。
したがって、敵からプロビンスを奪った後はコア化の前に改宗をしてしまうのも一考。ビザンツ以外の正教国でも同じことだがビザンツは特にこの効果が強いのである。NIの改修強度+3%で改修速度も早いしね。
他のNIは・・・まあ特に書くこともないけど無難なものがそろってる。傭兵メンテ-15%とかもAdmアイデアと合わせれば強い部類に入りそうではあるかなあ・・・*16
アイデア | 効果 |
Traditions | -10% Advisor costs,+3 Tolerance of the True Faith |
Regulation of Mercenaries | -15% Mercenary maintenance |
Repopulation of the Countryside | +10% National manpower modifier,+5% Goods produced modifier |
State Administrative Reform | +10% National tax modifier |
Delegated Power | -10% Stability cost modifier |
Byzantine Merchant Class | +10% Global trade power |
The New Imperial Army | +5% Discipline |
Restore the Ecumenical Patriarch | +3% Missionary Strength |
Ambition | +1 Yearly prestige |
書くことなし。強いて言うならビザンツが太って国のタグが見やすくなった。
上の項目を書いてから思ったがもはやいちいち特筆することもないので1630年までの拡張の様子をぜひ垂れ流しでご覧ください。
簡易的に説明すると、
などなど。1630年時点で拡張範囲は以下のようになりました。(黄色:ビザンツの直轄領 水色:属国・植民国家領)
一連の拡張により、ビザンツの国力は一気に増加。
総収入は上のほうのSS*19と比較しておよそ2.5倍の52.26ダカットとなり、Army Force Limitも70まで増加。Great Powerランクは5位まで上昇し、ビザンツ陸軍の規模はフランスのそれと同じになりました。(1630年時点の話)
今後は、すでにAge of Absolutismに入っているためAbsolutismをできるだけ上げてコア化コストを抑えるのと、北アフリカまで進出してオスマンと対峙するのが大きな柱となります。
Absolutismを上げるためにはAutonomyを下げなければならないので反乱が頻発しますが、ここまで国力が上がれば対処も容易でしょう。ビザンツの優秀なNIもありますし。
予定では1700年までにオスマンと接するようにし100年かけてBasileusに必要なプロビンスを奪うので、オスマンとの直接対峙の時間もいよいよ近づいてきました。
正直まだまだオスマンとの国力差は相当あるのですが、きっと何とかなるはず・・・なるのか?
続き→[[]]
前→AAR/Exploration Way of Byzantium/5話-Make Byzantium Great Again