AAR/Exploration Way of Byzantium
東ローマ帝国は空前の繁栄を迎えていた。
広がり続ける領土、かつての版図の再征服・・・
395年「ゲルマン人」の移動によって軍事の弱体化が露呈したローマ帝国は、秩序を整えるべく帝国を東西に分割した。
西ローマ帝国はその後幾度の危機にさらされ崩壊するも東ローマ帝国は生き残り、100年後皇帝ユスティニアヌス1世のもとで亡き兄弟の遺骨の収集を開始する。
「中華」と呼ばれる地域からは動物性の糸がもたらされ、古代ローマ法が改訂され、かつての首都ローマを占拠していた東ゴート王国を滅亡させるなど皇帝の治世下では
誰もが夢見ていた「パクス・ロマーナ」を思い起こさせる発展を遂げ、後世では同皇帝は大帝と呼ばれ人々の尊敬を集めた。
大帝の死後も比較的経済的に恵まれた東ローマ帝国では、繁栄期を気付いたヘラクレイオス1世の治世以降、この帝国の舵を取った皇帝の称号として「Basileus/バシレウス」が定着したのであった。
7世紀頃、ラテン語が使われなくなり、ギリシア人の国家と化した東ローマ帝国を「ビザンツ帝国」と揶揄するものが現れたそうであるが、東ローマはれっきとしたS.P.Q.R、ローマ帝国の直系の子孫である。
しかし異教徒との戦争が行われる中、「セルジューク・トルコ」という勢力に東ローマ帝国は大敗、国土を大幅に失う。
一時期は勢力回復に成功するも1204年、金の亡者として有名なヴェネツィアに指示された十字軍がコンスタンティノープルを奪取し、亡命政権が再び帝国を再建するまで60年間、帝国は断絶。1261年亡命政権皇帝ミカエル8世は再びコンスタンティノープルを奪還しパレオロゴス朝を開くも、もはや東ローマ帝国に大国としての威厳は無かった。
そして200年の月日が流れ・・・
皇帝Loannes8世(2/2/2)はある決断に迫られていた。
断絶期こそあるものの1500年続くローマ帝国の歴史をここで終わらせていいのか。いや、よくない。
唯一安心できることといえば、正教の教えは各国に既に伝わっており、北ではモスクワ大公国が勢力を拡大していると聞く以上、ここで東ローマ帝国が滅んでも今後も守られる保障はあるだろう。
しかしローマ帝国そのものは?かつての亡命政権の一つで今も細々と続いているトレビゾンド帝国は強固な山の天然要塞に守られているがいづれはあのセルジューク・トルコの後継者、オスマン帝国に滅ぼされてしまうだろう。
どうしたらこの先ローマを過去の遺産としてではなく生きる歴史として残すことができるのか。
もはやかつてのローマの湖であった地中海周辺にはローマが今後の活路を見いだせる場所は残されてはいない。
西ではローマを所持していないのにもかかわらず西ローマ帝国の冠をかぶった神聖ローマ帝国が居座り、地中海の対岸にはもはや異教徒しか存在せず、東ではかつて雌雄を争ったペルシア大帝国の面影も無く小国が分立するも東ローマが入る余地はない。
しかし途方に暮れた皇帝に、ある考えが浮かぶ。
そう、それならば地中海から出ればいいのか・・・!
この考えを聞いた皇帝の重臣達は驚いた。地中海の外といえば「ブリタニア」がかつてのローマ帝国の一部であったが、そこには強大なイングランド王国が勢力圏を定めており、接触したらひとたまりもない。
もちろん皇帝もそれは承知でいた。いくら行政や外交や軍事に疎い(2/2/2)からといって元ローマの勢力圏にある国はすべて把握しているつもりだった。
だからこその考えである。ジブラルタル海峡から地中海を出て北に行くのがダメであれば南に行くのだ。
そこは皇帝も重臣もはたまた世界をよく知る商人でさえも知らない新天地であった。しかしローマ帝国を生き残らせるにはきっとそれしかない。ないはずだ。
1444年12月12日、皇帝は新天地移住の希望者を集めて片道だけの燃料を搭載した艦隊を用意し、地中海を西に向けて漕ぎ出した。
途中、イベリア半島(あのパクス・ロマーナ期にローマ帝国の最大版図を築いたハドリアヌス帝の出身地である)に一時寄港したところ、「ポルトガル」、「カスティリャ」王国が攻略に苦難していたと聞く異教徒の土地に踏み入れてしまったようで、中規模の戦闘が起きたものの、何百年を異教徒と戦い続けてきた歴戦のローマ帝国兵士に相手が勝るはずもなく、これを屈させた。
再び航海を続けようとした矢先、先の2王国の人民はこの戦いぶりにあまりにも衝撃を受けたようで、こちらの事情と身元を知るやいなや、援助を申し立ててきた。
彼らの一部は「どうやらジブラルタルの南に無人島がある」*1ということを快く教えてくれ、更には案内までしてくれた。
1465年、皇帝一行はその無人島にたどり着き、東ローマ帝国の遷都を宣言した。
それはコンスタンティノープルが陥落し、オスマン帝国の新しい首都となった7年後の出来事である。
(画像)
上の茶番書くのにリアルで2時間くらいかかったからたぶんもうこんなに文章は書かないと思う。
初期君主(2/2/2)が1456年で崩御し、Konstantinos11世(3→4/2/2)の治世となりました。史実だとビザンツ最後の皇帝ですね。
4/2/2と聞くと一見能力がかなり劣っていると勘違いされがちですが、全くそんなことはなく、当プレイを終える1800年までにadmが0の君主がなんと4人(うち一人は摂政)もいたので正直後から見返すとかなり有能な皇帝でした。
前回で無事Cape Verdeの1プロビ国家になったので早速植民するなり西アフリカに勢力を拡大するなりします。
まずはたまたまポルトガルが植民していなかった*2Arguinに植民。
(画像31)
ここはCape VerdeとStateが同じなのでとれるのであれば取っておいたほうがいいです。
徐々に探索が進んできました。
(画像32)
正直、この時期は先ほどとは打って変わって書くことがほとんどないほど暇なのでどうでもいいことでも書きます。
(画像33)
CirccasiaがGazikumukhanに攻められビザンツに防衛要請が来るが形式参戦だけしてガン無視。
今後も序盤は一部を除き旧大陸の戦争は形式参戦にとどめました。
この時期の財政はコンスタンティノープルを失って財政基盤がかなり弱く、収入の1/3がCastileのSubsides(収入3.13、Subsides1.06)というありさまですが、これは自然と改善します(後述)。
(画像34)
Explorationアイデアの4つ目*3を取って植民速度を加速しつつ、
(画像35)
Cape Verdeをadm点で重点的にdevポチしてTaxationを増やし、収入の増加につなげるとともにルネサンスの受容を目指します。
ちなみに、このプロビンスをdevポチするのは、ルネサンスの1個前のInstitutionである封建主義がこの土地に伝播されてから行ってください。
(画像36)
このように、最初の状態では封建主義が受容されておらず、この時期にdevポチするとルネサンスのInstitutionの割合は伸びません。
筆者はこれに気付くまでにadmとmilポイントを合計600近く無駄にすることになりました。
(画像37)
また、平行して南米の原住民国家にも適時Claimを付けて*4土地を奪っていきました。
あとこれは1.25の話ですが、前バージョンまで言われていた、いわゆる「原住民貯金」(原住民国家に戦争で勝利した際戦勝点一杯に資金を要求することで金策とすること。別に原住民国家じゃなくてもよく、よくハンブルクやキルワが標的になっていた)はSSを見る通りほとんど機能していないです。
理由は、
これ。簡単に言うと講和時に要求できる金の量がめっちゃ減った。
どれくらい減ったかというと、昔は原住民国家1国を倒すたび100ダカット以上は手に入っていたのに、今はたったの15ダカット。
プレイ前はこれによる金策を考えていたのに、一気に計画を覆された。
(画像38)
植民もだいぶ進んできました。
そして1485年、ようやくルネサンスを受容。
(画像39)
上記のミスやイベントによりdev追加もあり、最終的にCape Verdeはdev13/7/17、総計37の大都市となりました。
(画像41)
時間は前後しますが、ここでGranadaを属国から解放しました。
(画像40)
理由は、
の2つ。
思い返せば最初にCastileに攻撃されたくないがために外交枠を2つ超過させてまで同盟を結んでいたので君主点へのダメージも結構馬鹿になっていませんでした。
そして時は下り、
(画像42)
CastileからのSubsidesに頼らなくても済むくらいには財政的に余裕がでました。(+0.96で財政的に余裕と言えるほとこのプレイの序盤は金策がきつい)
Castile vs Franceの戦いに呼ばれる。
(画像44)
(画像43)
実はこの戦い、このゲームにおいて(ビザンツにとっては)かなり大きな意味を持っていた。
もちろんかよわいいびざんつちゃんはこんな大国同士の戦いにその名を馳せるほど国力がなく*5戦わずに形式参戦をしようと黙り込んでいたのだが、
(画像45)
(画像47)
※ビザンツ帝国が宝くじを当てて大金を手にした結果使いきれず持て余す図
当然のように受諾し1000ダカット相当を入手。画像ほどではないがインフレが進むものの、まあ大した問題ではない。*6
この金のおかげで数十年後に建てられるか否か怪しかった建物をガンガン建ててプロビの出力を増やしました。
貯金箱は原住民じゃなくてフランスだったのか。
また、世界初の植民国家「Byzantine Brazil」が誕生。
(画像46)
これ、実は失敗で、本当は植民国家を作る予定はなく自分で新大陸のプロビを持とうとしたのだが、Cape Verdeが新大陸扱いではないことをすっかり忘れており、誕生してしまった。
宗主国が弱い当分の間はLDに怯えることとなったが、最終的には毎月30ダカットも仕送りしてくれる「使える植民国家」となったため、ここでの失敗は別にそこまで響くものではなかったが・・・
1500年の総dev(植民地、属国のdevは半減)は78。これでも初期ビザンツの2倍くらいにはなったが、devポチや君主の能力の低さ等も相まって技術は西欧やオスマンにはかなり遅れを取っている。西アフリカ諸国と差がないレベルだか拡張先はそこなのでとりわけ問題はないか。
(画像47)
ちなみにこのゲーム中にKonstantinos11世(4/3/2) が1472年に崩御、続くTheodora2世(0/2/3)が33年も国政を握りやがった。割とまじめなほうでadmがやばい。