第十章 侵略将軍秀忠とアジア征服
1807年11月…
足利幕府は1444年に足利義政が開祖尊氏から天命を授けられてから積極的に領土拡張政策をとってきた。
守護大名の外交併合、原住民の討伐、東南アジア諸国への侵略…
勿論、その都度恨みを買いそれは独立を求める蜂起へと繋がったが、精強な幕府軍によって鎮圧されていった。
連携のとれていない地方の反乱など幕府にとって鎮圧は容易だった。
しかし、技術が発展し交通や通信が以前より容易になると、
皮肉にも守護大名の末裔や東南アジア諸国の残党等の反幕勢力の連帯を生むこととなった。
彼らはベンガルとの戦いにより幕府が疲弊した隙をつき、ついに蜂起した。
武家が支配する時代は終わった!これからは民衆が日本を動かす時だ!
足利を打倒せよ!身分や民族にとらわれない新しい時代を創るのだ!
「打倒足利」のスローガンは文化も民族も違う彼らを結びつけることとなった…
た、大変です!突如、領内にて革命軍が蜂起…すでにこの京都も包囲されています!
首謀者は松永信忠なる素浪人ですが、有栖川の落胤を僭称しているとのこと…
はっ!まずは中国の革命軍から片付けます。とりあえず京から脱出しましょう。
幕府首脳は革命軍に包囲されている京都から脱出し、南京に退避しそこで革命軍鎮圧の指揮をとることにした。
1808年3月…
中国地方の革命軍は鎮圧された。
わかっておる。次は東南アジアの革命軍を撃破せよ。日本は最後だ。
1809年7月…
東南アジアの革命軍は鎮圧された。
旧明領の分離独立の反乱が相次ぎ、兵力がそちらに取られました。
この機に乗じてといったところか…まあいい。いよいよ日本を取り戻すぞ。
密偵からの報告では、松永が帝に対し討幕の勅を下すよう要求しているとのこと…
1810年3月
幕府軍は九州に上陸した。
九州には革命軍の姿はなかったため直ちに占領に着手した。
50万近くの大軍がこちらに向かってきております。革命軍の主力です。
豊後を包囲している幕府軍に約50万の革命軍が襲い掛かった。
革命軍の物量に圧倒されながらも幕府軍は大陸からの援軍により戦線を維持していた。
そして…
1810年6月18日
幕府軍は約50万の革命軍を豊後にて撃破した。
革命軍の将軍前田利光は戦死し、革命軍は事実上崩壊した。
このまま京を放置しておけば革命が成功し、我々が晒し首になります。急ぎましょう。
1810年7月…
勢いに乗る幕府軍はこのまま日本各地を解放しつつ、京都に残る革命軍に攻撃を開始した。
この戦いはあっけなく終わり、革命軍は全滅…将軍山名通人は戦死した。
ちい…まあいい。このまま日本を解放していけばいずれ捕まるだろう。
1810年8月京都奪還…軍を全て失った革命軍になすすべはなかった。
1810年11月29日…
幕府軍は革命軍最後の拠点である千島を攻略した。
民家に隠れていた松永信忠は、幕府軍に捕らえられる直前に民家に仕掛けていた爆弾を爆発させ爆死した。
世界初の自爆であったと伝えられる…
とりあえずは第二の革命軍を出さぬために民政に注力しましょう。
1814年5月…
日本は大越に対して宣戦布告した。
大越は既に明から独立していたので明は動かなかった。
1814年6月…
大越は日本に併合された。
1814年9月…
日本は明に対して宣戦布告した。
1814年10月…
明をもって中華帝国は終わる…足利幕府がアジアを支配するのだ!
こうして明は日本に併合された。
秦の始皇帝以来、王朝の交代はあったが二千年近く続いた中華王朝はこうして終焉した。
1815年7月…
旧明領の改宗が完了した。
これにより孔子により創始され、長らく東アジア諸国の統治理念として活用された儒教は消滅した。
1816年8月…
1821年1月…
四百年近く居座ってきたが、そろそろ黄泉に旅立つときが来たようだ。
分かり申した…これまで足利の歴代を見守り頂き、ありがとうございました。
某も家光(4.4.4)も粉骨砕身します故、ごゆるりとお休みくだされ!
こうして長年、足利家を導いてきた義政は黄泉へ旅立った。
足利の新たな時代が始まるのだ。