15世紀終わりから16世紀初頭にかけての動きです。
ヴェネツィア→教皇庁→ヴェネツィア→オスマン→ヴェネツィア→オスマンの順に叩き、
攻撃的拡大と過剰拡大を抑えつつ少しずつ切り取っていきます。
イタリアではヴェネツィアVS教皇庁の戦争に、
ヴェネツィアにはハンガリー、イングランドが、
教皇庁にはアラゴン、ミラノが同盟国として参戦しており
この歴史におけるイタリア戦争の用を呈してきました。
そこで我がアルバニアはまずヴェネツィアに宣戦布告し数州獲得後さっさと切り上げ、
ついでまだヴェネツィアとの戦争継続中の教皇庁に宣戦布告して1州獲得。
戦力回復と停戦期間修了を待ち再度ヴェネツィアに宣戦布告し、
交易ノード中心地のヴェネツィア州を獲得しました。
(画像31)(画像32)
収入が一気に増えようやく大国らしくなってきました。
1513年には再び対オスマン戦争。
オスマン帝国がジャンダル侯国に攻め込んでいる間に背中を突くという前回と全く同じ流れ。途中でカスティーリャらが便乗参戦してオスマンをタコ殴りにするのもそのまま。(画像33)
相変わらず戦闘では勝った気がしない…(画像34)
この戦争でエディルネを獲得しコンスタンティノープルへリーチをかけ、
またアイドゥン侯国を独立させました。(画像35)
1522年に対ヴェネツィア戦争を起こし、
ヴェネツィア共和国に飲み込まれたフェラーラ侯国を復活、属国化します。
1527年、ついにコンスタンティノープルをキリスト教徒の手に取り返す時がやって来ました。(画像36)
今回はアルバニアはキャラック船を建造したため海戦でもオスマンのガレー船団に勝利。
過去の戦争では海上封鎖によって通れなかったマルマラ海の通過をも果たしました。(画像37)(画像38)
多方面からフルボッコにされるオスマン帝国。またこの流れかよ。(画像39)
これにてようやくコンスタンティノープルを獲得。
ついでにサルハン侯国の独立を認めさせ、領土を分断するように都市を割譲させました。(画像40)