第一回戦はドイツに・オスマンに対して3カ国で戦いを挑む形になった。
(軍質のバランス的に)
ドイツ一カ国で他の二カ国と同等ぐらいと考えられたためであった。
さて、この編成であるが筆者本人は開戦前からムガル側に優勢な組み合わせであると考えていた。
経済力における大きな差である。
ドイツの軍質を除いて
ドイツの軍質を除いて
1800年における月収入表
敵方 |ドイツ1790収入:| 310 | |オスマン1790収入:| 310 |
計 620D
此方 |ムガル1790収入:| 450 | |フランス1790収入:| 335 | |スペイン1790収入:| ~300(*) |
計 1075D
(*) : disasterの分抜き
月々の収入が毎月450 D程違いがあるのだ。これは10年で換算すると55000 D程の差となる。
同盟内での戦略においては、ここを念頭に資金を生かした傭兵祭りで行くことで意見はまとまった。
またこちらの優位点としては、海軍力で圧勝してる分開戦前(1790)より海賊も送り放題である。
実際のプレイでは1790と同時にアレクサンドリア・コンスタンティノープルといったオスマンの主ノードは黒く染まった。
また、ドイツのメインノード(バルト海)も送れるようになり次第海賊を送り込む、という事で同盟内の話はまとまった。※1
写真 戦力
では実際のプレイ開始状況であるが、こちらが表である。
ムガル的にはこの内政はややしくじったと考えていた。兵力限界は世界一といえどもそれを支える人的が足りていないのである。これではこの限界にも意味はあまりない。
ムガルはフランスに50dの月援助を送っていたが、それを入れてもフランスの財政はキツかった、とのことであったので、陸軍を減らして同盟国への援助を増やすべきであったかもしれない。
ただ、敵方には傭兵が全くおらず、これは長期戦を続けてれば人的・資金を削り殺せると考えていた。
しかしながら、ドイツ側の軍質はムガルでは絶対に太刀打ちできないため、いかに戦うかを考えることとなった。
作戦
写真 作戦
立てていた作戦としては、スペインと共同してオスマンをまず潰すことにした。
理由としてはオスマン側の守りにくさ(北アフリカ・カイロ周辺・イタリア・シリア等)といった状況を突き、オスマンの財政破綻を狙っていく戦略を取った。実際のプレイにおいてはスペインに北アフリカ・カイロの占領を任せ、ムガルはオスマン国土を遮断するシリア周辺の確保に向かった。
また、大開戦が起きるとするならばシリア~アナトリア周辺で起きると考えられたため、スペインにも150k程の援軍をシリアに要請した。
西部戦線はフランスの質(宗教コンプ出来ていない)がドイツにどうしても劣ってしまうので、積極的攻勢は出ずに、ハラスメントを行いドイツを引き付けることを要請した。
ムガル側で起こりうる負けパターンとしては、ドイツオスマンが全軍でムガル側に突撃してくることが考えられた。そのため、フランスにはそれをさせない動きをお願いした。
ドイツ対策としては、二倍数の数を持ってるしかないため、ドイツ本体が到着するまでにオスマンを可能な限り削ることが求められた。
戦争開始
戦争が開始直後、我らがムガルはオスマンのシリア方面に直行した。ドイツがこちら側に来ていなかったこともあり、ムガルはシリア方面で戦力的な優勢を確保し多少の小競り合いの後、当地の制圧に成功した。
これは開戦から一年後の写真である。北アフリカ・シリアの制圧に成功し、アフリカ奥地には有力な敵軍がいないため、制圧も直ぐに終わると考えられた。
写真2
ここまでの目標は達成・・・が。
しかし、ここからが本当の地獄の始まりとは知る由もなかったのであった。
それは、ドイツ軍の本体到着である。
開戦より一年ほど経過した辺りで、ドイツ側はフランスの延々と続く要塞線の突破を諦めたのか、またピンチに陥っているその同盟国の為か部隊を回したのである。
写真4
ドイツ軍がついにやってきた。
写真5
規律135
士気11.9
火力6将軍
広陵地帯に籠城※2
正しく神である。
写真7
負けると思ってなかった。
想定以上の質である、これが何を意味するか、突破が厳しいものとなった。
広陵に篭って籠城されるとどうしても抜けない。※3
写真においては不利な地形であったこともあり、数倍の戦力においても敗退してしまった。
しかし、ドイツ側も戦力的な余裕があったわけではなく、HALEB(要塞がたっている、ここを占領しないとアナトリアに入りにくい)を巡ってのにらみ合いを両軍は数年にわたって続けることとなる。
開戦から8年の戦力図。写真参照
ドイツ軍に蹴散らされてしまい、ムガルは人的が切れている。
その代わりドイツの人的を削りきることに成功した。
流れが変わるとき
戦争が完全に詰まってしまい、開始から10年が経過した。ここに、同盟にとって大きな出来事がおきた。フランスが宗教アイデアをコンプしたのである。
これにより、フランス軍の士気は20%上昇するためドイツ軍とも張り合えるようになった為、フランス軍はライン川を渡り、ドイツ領への進軍を開始した。
写真9
フランス軍、ついに打って出る
結論から言うと、この攻勢は失敗した。しかしながら、ドイツ軍がオスマン領より引き抜かれて手薄となったアナトリアにスペインムガルは攻撃し、同地においての主導権を遂に確保した。
写真10
その途上、ドイツ相手に開戦で大負けを喫したものの、補給のしやすさで押し切った。
写真 決戦
ドイツ軍といえども平地でこの兵数の差には勝てない。
この決戦で勝利したことでアナトリアへの道が開けた。
写真 12
数的優勢を確保したことで積極的な攻勢をしかける
写真 14
イズミットを確保し、海峡に船を浮かべることでアナトリア方面への援軍を塞ぐ。
これによりアナトリアでの戦役は終了し、以降はドイツ本土への戦争が行われることとなった。
その頃の西部戦線
写真11
海賊に汚染されるバルト海ノード
写真13
西部での戦い
ドイツ本土攻撃
足掛け15年の攻撃により、オスマンをアナトリアより追い出した。これにより計画を立てることとなった。
一つはバルカンを打通しオスマンに引導を渡すこと
もう一つはカフカースよりウクライナへ浸透し、防御の薄いドイツ北部への侵攻を目指すというもの。
この二択であった。この選択については自分自身で答えが出せず、スペインにバルカン打通を依頼し、自分自身はカフカースより浸透に向かった。
写真15
結論から言うと、この選択は大失敗であった。
写真 スペイン軍
写真 コウさん軍
数的に少ないスペイン軍に交戦の可能性が多いバルカン方面を依頼したのがミスであった。
オスマンドイツ連合の攻撃によりスペインの侵攻部隊は殲滅されてしまった。
この失敗により、ある恐れが出てきた。タイムアップである
現時点で時間は1815末を差しており、1821(ゲーム終了)までそこまで時間が残されていなかった。
これにより連合軍はタイムアップという現実に直面しつつ最後の舵取りを迫られることとなる。
最後の戦役
最後の五年間が始まり、ドイツ完全占領はもはや不可能となった為ムガル連合軍はオスマンを脱落させることを目標に切り替えた。
本土たるアナトリアを失陥し、オスマン側の継戦能力は著しく低下し借りられる借金の枚数も減っている筈だからである。※4
この当時のオスマンは250~300の部隊を抱えており、その中で傭兵は200ほど抱えていたが、その費用はバルカンだけで賄えるはずもなく、借金の利息も払っていると考えるとオスマンの寿命は長くないはずであった。
そのため、作戦としてはオスマンに止めを刺すためにバルカン半島の制圧が求められた。
その友邦たるドイツもそれを阻止するために全力を投げ打ってくるはずである。ここで勝利を掴むことで戦争に勝利できるはずであった。
写真
ここでドイツ側が戦術を切り替える
ドイツ軍が分散戦術をやめ、集中運用に切り替えたのである。
損耗を避けるため兵力を分散していたスペイン・フランス軍はドイツ軍の機動戦によって蹴散らされてしまった。これによりスペインフランス軍はその兵力の大半をロスト、再建にはかなり時間がかかる見通しであった。
写真16
写真17
スペイン派遣軍が壊滅・・・。
ムガル軍も450程の部隊をひとまとめに集中運用を選択した。
しかしながら、フランススペイン軍の壊滅により数的優勢が失われ、以降は延々としたぶつけ合いが終戦まで続けられることとなった。
終戦
そして、時計の針が1821を差し、終戦が宣言された。
結果としては、引き分けである。
ムガル側はオスマンを脱落させるという戦略目標と達成できず、ドイツはオスマンを生き残らせるという戦略目標を達成したのだ。オスマンはあと一年で破産していた、とのことであったがゲーム内で破産しない破産はなんの意味もないのである。これぞ引き分け以外のなんであろうか。
戦争の終結により、二回目の戦争が討論され。
二回目の戦争としては、タッグマッチが選択された。
組み合わせ
オスマン・ムガルVSスペイン・フランスとなった
二回目の組み合わせは今回死闘を繰り広げたオスマンとの連合となったのである。
次回の戦争の組み合わせが決定され、各国はその準備に励むこととなった。