1540年代後半、共和国は併合したベッサラビアの対岸、交易の重要拠点であるクリミアの領有を狙い、クリミアハン国に宣戦布告。これを割譲させた。
しかし、クリミアを領有してはいるものの、この地におけるヴェネツィアの富の割合は低いままであった。
そこで、共和国は、クリミア半島南部のカッファの領有を狙い、トレビゾント帝国に宣戦布告した。
トレビゾント帝国にはモスクワ大公が後ろ盾として存在しており、戦場は黒海沿岸に限定されたものの、数年にわたる大戦争となった。
しかし、共和国は1553年にはタルノヴォで大公国軍の主力をを正面から破り、陸軍国家と正面から戦っても勝ちうるという自信をつけた。
これは、共和国が軍事パワーを使うところが特になく、技術にどんどん軍事パワーを注ぎ込んだ結果、性能の高いユニットを用いることができているということに拠った勝利であった。
1557年、共和国はカッファの領有に成功した。
また、1561年には、さらなる黒海における影響力増加を狙い、クリミア=ハン国のアゾフを攻撃。
翌年、これを割譲させた。
この一連の戦争で、共和国の黒海における影響力は地域最大のものとなった。
共和国は、弱体化したマムルーク朝やオスマン帝国の善き隣人でいるつもりはまったくなかった。
1564年、カイロに居座っていた、マムルーク朝のカリフを攻撃。カイロから退去させた。
また、1568年から1570年までオスマン帝国と戦い、スルタンを首都エディルネから退去させた。
これにより、オスマン帝国は最後の欧州の領土を失った。
共和国は、1560年代半ば、3つ目のideaに探検のideaを選択した。
共和国は主にシナイ半島からインドを目指す航路の開拓を目指した。
1573年にはアフリカの角に最初の植民地の建設が開始された。
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