1464年、ヴェネツィア共和国の艦隊は、海軍ideaの効果により、上限を倍に伸ばし、50隻に達した。
これは、マムルーク朝とオスマン帝国を合わせて数と拮抗する。従って、もはやヴェネツィアのキプロス攻略への障害は何も存在しないように思えた。
これが、後の歴史家が”キプロス戦争”あるいは”十年戦争"と名づける大戦争になろうとは誰も想像していなかった……。
1464年中にヴェネツィア軍はキプロスを攻囲し、海軍はマムルーク艦隊をアレキサンドリアに閉じ込めた。
全てが、順調のように思えた。
1465年、ヴェネツィアを震撼させる出来事が起こった。
オスマン帝国がヴェネツィアに宣戦布告をしてきたのだ。
幸いなことに、オスマン帝国の主力は小アジア方面にあった為に、元首はマムルーク艦隊の封じ込めを中止し、ボスフォラス=ダーダネルス両海峡の封鎖を指示した。そして、封鎖後、一万の歩兵を用いてオスマン領ギリシャの全土を攻囲した。
だが、これが本来ならリセットするほどの致命的な事態を呼び込んだ。
ヴェネツィアがマムルーク艦隊の封じ込めを軽視ししたのは、せいぜいマムルーク艦隊が上陸をしたとしても2、3千をクレタやギリシャに送り込む程度だろうと考えていたからであった。
ところが、マムルーク朝は、一万二千の兵を搭乗させたほぼ前艦隊をヴェネツィア本土へ向けて出向せた。
慌ててヴェネツィアは封鎖艦隊の半ばを割き、マムルーク朝艦隊へと向かわせた。
この艦隊はアドリア海の交易艦隊との合同で戦うことを前提にしていた。
ところが、実際には各個撃破され、マムルーク軍のヴェネツィア上陸を許してしまう。
さらに艦隊の分割によって、密度を薄くした海峡封鎖が、どこからか襲来した5隻のオスマン艦隊によって突破されて、二万八千のオスマン軍がコンスタンティノープルを包囲した。
そして、1468年、ヴェネツィアは史上初の陥落を経験した。
共和国の命運は尽きたかのように思えた。
ヴェネツィアは、しかし、それでも屈しなかった。
まず、ギリシャの一万の歩兵を陸路でイタリアへ送り込む。
オスマン帝国の封鎖から戻った艦隊は、マムルーク朝の艦隊を撃破した。
テッラ・フォルマ(本土)で新たな兵を徴兵し、帰還した一万の兵を合わせて孤立するヴェネツィアのマムルーク軍に攻撃を加える。マムルーク軍は壊滅した。
また、艦隊は、マムルーク朝の主要港を封鎖し、経済的に痛めつけた。
この結果、マムルーク朝とヴェネツィアの間に講和が成立した。これは、共和国に有利なものだった。
それは、キプロス割譲という当初の目標と、100ダカットの賠償金であった。
また、オスマン帝国によってこの頃にはコンスタンティノープルは陥落していた。
共和国は、再度海峡を封鎖し、小アジアのオスマン領へ一万の歩兵を送り込み、これを占領していく。
その結果、ほぼ白紙講和に近い講和を結ぶことができた。
この時、既に1474年。十年に渡る大戦争であった。
戦争中、ヴェネツィアは厭戦を抑える為に凄まじい外交パワーを注ぎ、この後、各地で叛乱が頻発した。ヴェネツィアが失ったものは大きかった。
戦後まもなく、共和国は、オスマン帝国に対抗するために、宿敵とも言えるハンガリーと同盟を結んだ。
また、属国であったナクソス公国を併呑した。
1476年、ヴェネツィアはオスマン帝国との再戦に備えて国力増強をすべく、ロードス騎士団、アテネ公国を攻撃し、これを領有した。
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