AAR/北欧の狂犬

第五章 帝国主義 前編



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~ 帝国主義について、剛田武



ソマリア進駐(1647~1649年、1656~58年、1674~76年)

 アフリカで産出する海軍軍需品3ヶ所のうちの2ヶ所がソマリア半島に存在する。
それを押さえるべくノルウェー帝国は一個師団の派兵を決定した。*1

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めんどくさいことにソマリア半島にある海軍軍需品のその内1ヶ所は首都に存在する。
まずは首都を取り囲むように割譲。統治点が勿体無いのでコア化はせずに後年、首都を割譲してから周りは返還した。



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こちらは1676年に獲得。
オスマンとの国境になったため軍事要塞化したが後年のオスマンとの大戦では一度も攻められることは無かった。



1648年 政治体制が絶対君主制に移行する。

ポメラニア侵攻(1649~1652年、1665~1669年)

バルト海沿岸に存在する残りの海軍軍需品を回収すべく、まずは小国ポメラニアに侵攻を開始した。

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ポメラニア領内には海軍軍需品が2ヶ所存在したがその内1ヶ所は首都に存在する為、2回に分けて侵攻した。


東プロシア戦争(1661~1664年)

 ポメラニアを無力化した今、バルト海における覇権争いはノルウェー帝国とポーランド王国の2ヶ国に絞られた。
リトアニアを制した直後からノルウェー帝国は海軍軍需品の一大生産地でもあり、また非常に豊かな土地でもあった東プロシアに目を付けていた。
ポーランド王国もバルト海への出口である東プロシアを譲歩する余地は無く、両国の緊張は高まっていた。

1661年ノルウェー帝国は東プロシアの領有権を捏造し一方的に領有を宣言。ポーランド領内に侵入し、東プロシア戦争が勃発した。

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東プロシア戦争開戦前夜の様子。カトリックの守護者たるフランスはノルウェーに寝返る。
この頃のポーランドは外交的に孤立しており、勝敗は戦う前に決していた。



 ノルウェー、スウェーデン、リトアニア連合軍に国土を蹂躙されたポーランドは完全敗北を喫する。
ノルウェー帝国は講和にてポーランド王国から東プロシアと旧ハンガリー領を勝ち取った。


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ハンガリー領内に存在する海軍軍需品は当初の予定ではアドリア海方面から奪取するつもりであったが、
リトアニアが丸々手に入った恩恵によりまさかの裏側ルートからの獲得。同君連合の領地を跨いでもコア化できてありがたやありがたや


カスティーリャ植民地戦争(1668~1672年)

 バルト海沿岸の海軍軍需品を全て押さえたノルウェー帝国の次なる標的は南米、オセアニアで新たに産出した海軍軍需品であった。
1668年新大陸にてカスティーリャ植民地がフランス植民地へ攻撃を仕掛けたことにより宗主国を巻き込んだ戦争に発展。
ノルウェー帝国はフランスに乞われて即日カスティーリャに宣戦布告。ここにカスティーリャ植民地戦争が勃発した。

 この戦争の対価としてノルウェー帝国はカスティーリャの勢力下の海軍軍需品プロビ4ヶ所を割譲せしめる。
内訳はインドネシアにて1州、ポリネシアにて1州、ガラパゴス諸島、フォークランド諸島である。

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この戦争の後もたびたびニューカスティーリャの野心に振り回されその度に毎回フランス様にボコられる可哀想なカステラ



1674年 外交レベル22に到達し、帝国主義の大義名分を獲得。

第二次アジア侵略戦争(1679~1684年)

 アユタヤおよびマラッカに侵攻し、新たに3ヶ所の海軍軍需品を獲得する。

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この戦争をもって東南アジアでの海軍軍需品は全てノルウェー帝国の傘下に収まる。
アジアで未回収の海軍軍需品はインド、明、満州周辺のみとなった。



1680年 イングランド王国外交併合
 これによりイングランド王国の海軍軍需品産出プロビ2州を含む海外領土も引継ぎ、ノルウェー帝国の版図は更に拡大した。

第五章 帝国主義 後編


*1 v1.8より東アフリカの国々のテクノロジーがサブサハラグループからインドグループに変更になった。これにより大義名分「Oversers Expansion」の適用が可能になった。

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