李氏朝鮮4代国王、祹(ド)は後世その功績をたたえて世宗大王とも呼ばれた非常に優れた統治者でした。
生来の才気(6/5/5)に長年の統治による経験を加えた彼の治世、民は進んで税を納め(税収+10%)、兵は誇りを胸に戦いに挑んだ(陸軍士気+5%)と史書に記されています。
祹(ド)の業績には様々なものがありますが、まず挙げるべきは半島の北、満洲に割拠していた女真族の征服でしょう。
1444年、王子・珦(ヒャン)に命じて建州女直(JIANZHOU)を攻撃し2州を割譲させます。
領土的成果は2州だけでしたが、朝鮮の武威は近隣に轟きました。(HumiliateによるPP獲得)
さらに1450年、野人女直(YEREN)との争いで疲弊していた海西女直(HAIXI)を攻め、服属を誓わせました。(全土割譲からの属国開放)
さて、先の戦争で朝鮮に敗れた建州女直は内乱の末に野人女直の介入を招き、1456年には全土が野人女直の勢力下に入っていました。この混乱を好機と見た祹は軍を発し、旧建州女直領のうち3州を割譲させました。(1457-1460)
こうして3つの女直全てを破った北伐により祹は大陸北東部での朝鮮の地位を確固たるものとしました。
祹(ド)のもう一つの業績は海洋進出政策に先鞭をつけたことです。
1454年、彼は勅を発し、最初の入植者をルソン島(Pangasinan)に送り込みました。(探検アイディア取得)
後世の創作ではあたかもこの年から朝鮮の海洋進出・探検が一気に進んだかのように描かれることも多いのですが、実態に即して言えばこの時点では既存の航路を使った既知の地域への入植の許諾でしかなく、また半島から最も近い台湾島は明からも近いという理由で入植を禁じるなど、海禁政策を採る宗主国・明の顔色を窺ったり国内保守派の反発をなだめたりしながらの入植だったことが最近の研究で明らかになっています。(実際はInstitutionの伝播ルートを限定したかった)
しかしながらこの勅が後の東南アジア島嶼領、そして新大陸の発見・領有として結実し、朝鮮のさらなる発展を促したことは間違いないと言えるでしょう。
将軍として建州女直・海西女直への北伐軍を率いた王子・珦(ヒャン)ですが、王宮の内外を問わず評判は芳しくありませんでした。「性粗野にして吝」とまで書かれた文書が発見されています(君主能力2/1/1)。
1452年、ついに祹(ド)は珦を廃嫡し、一族内から文(ムン)を養子に迎えます。文は一族でも将来を嘱望された優秀な若者(4/5/3)ではありましたが、嫡出の王子を廃して養子を後継とするこの決断に国内には動揺が広がりました。(Xiaoren?。安定度-1、全Estateの忠誠-10)
さらにこの文も立太子から6年後の1458年、狩猟中の事故で即位を待たずに世を去ってしまいます。
結局1463年に祹(ド)が没した時、明確に定められた後継者はいませんでした。(君主特性・後継者誕生確率-25%)