ロシアとオスマン、この2大国に接したままでは中華皇帝になどなれません。
また、実績のためにもこの両国からは国土を奪う必要があります。
列強一位の座を占めるオスマンに対抗する力を蓄えるため、相対的に弱いロシア
そして技術後進国でありながら豊かなインドへの侵攻を決めました。
まずは1593年、ロシアとオスマンが争っている隙を衝いてロシアに宣戦しました。
この戦争は1597年末まで続きました。
森林地帯での戦闘を避けるために軍の移動に苦労しましたが戦勝点55%で停戦します。
損耗ダメージをかなり受け、こちらの被害の方が多い状況。
ただし人的資源は戦前170k→戦中153K→停戦時164k。草原からは兵力がモリモリ湧いてきます。遊牧民政体万歳!
(最大人的資源:帝国ランク遊牧民政体+30%、Horde Idea+25%、Quantity+50%
人的資源回復:Horde Idea+20%、Quantity+20%)
停戦交渉ではオスマンとロシアの接点を減らしつつRYAZANと接するように領土を獲得。
また、ウラル山脈東側でシベリア領と本土を分断。これでロシアのシベリア植民がストップしました。
(首都がGirinなので、近くまで植民されて兵を置かれることを嫌いました。)
ロシアを叩いたのちは、引き続き明を叩くほか、ペルシャ・ホラーサーン地方に領土を獲得してゆきます。
その後1607年、豊かなヒンドスタン平原を狙ってジャウンプルに宣戦しました。
ジャウンプルはヴィジャヤナガルに加え、ゴンドワナとも同盟していて兵力で言えば侮りがたい数が出てきます。
いずれも技術後進国ではありますが、迂闊な敗戦をしないよう進軍には気をつけました。
南方には山岳も多いので、ジャウンプル領の大半を占領した時点(戦勝点44%)でヴィジャヤナガルとの同盟を切らせつつ停戦。
開発度が高いため領土は3州しか奪えませんが、次からは勝ちやすくなりました。
インドの豊かな州は明領同様、属国開放からステート化を行う主要地域となります。
この後は明・ロシア・インドの三方面を順次叩いてゆきながら、間を縫って小国を順次削ってゆく時間が続きます。
1629年、明のDisasterが終わったという情報がPOPしました。
あれ? と思って中華皇帝ビューを開くと・・・
AVAが帝位を奪っていました。おまいさんうちの朝貢国じゃないかね。。。
事態がこうなった経緯を整理しますと
マラッカがアユタヤを叩く
→停戦交渉で、アユタヤがかつて明から奪っていた、AVAに隣接する東南アジアの1州が返還される
→モンゴルは慌てて明を釣り出しこの州を奪うが、既にAVAが明に宣戦している
→和平を強制しようとするが、どちらも応じない
→AVAを叩いておけばいいだろうと宣戦。当然勝利するも深く考えずに朝貢国化で停戦
→明とAVAはそのうち白紙和平するだろうと思っていたが、よく考えたら朝貢国は宗主国の領土を通れる
→すっかり忘れていたころにAVAが明領を制圧したらしく、モンゴルの朝貢国にして中華皇帝・AVAが爆誕
という流れでした。我ながら何やってんだか。。。
停戦に応じないならそれを口実に明側に立って参戦すればよかったのに。Enforce Peaceの使い方を分かっていませんでした。
分不相応な地位に就いたAVAはこの後様々なDisasterに苦しみ続けます。天命も当然0にベッタリ。
ただSHANに変態したらその時は天命が60に回復していました。
王朝が変わったかどうかわかりませんが、易姓革命ということでしょうか。。。
時間を進めて1629年12月、モンゴルの勢力範囲はこのようになりました(外交マップモード)。
この時までに明は累計10回叩いており、残る国土は3州となっています。
樺太は日本から脅し取りました。海軍が貧弱なので日本列島に兵を送り込む気はありません。
(属国が作った小型船で貿易支援をしているだけ)
ロシアとは上記の後さらに2度戦い(1610.1626)、次戦に備えてPERMとNOVGORODの種地を開放しました。
インド方面ではジャウンプルと再戦。初戦で属国解放したパンジャブの領土を広げつつ自領も拡大しています。
手書きで汚いですが、赤で斜線を重ねたのが属国。上記3国の他にアストラハン、越があります。
これら以外の水色は朝貢国です。
オマーンは外交で朝貢可能だったのでオスマンの東進を防ぐ蓋として選択しましたが、将来的にはペルシャから出て行ってもらわなければなりません。
ルテニアもPonticSteppeに領土を持っていますのでどこかでさようならですね。
(こういう判断をもっとバンバンしていくことが皇帝プレイには必要なのかも)
またこの後アユタヤを叩き、強制的に朝貢させました。
Tribal Conquest CBは朝貢の強制も目標のひとつなので外交点がかかりません。やはり遊牧民は便利。
少々進んだ1632年の陸軍台帳。
兵力はオスマンの倍となりました。中国・東南アジア方面に残置する兵力もいますが、これなら大丈夫でしょう。
いよいよ火蓋を切ることに決め、時代に3年先行して軍事技術を19に上げます。
また満を持して黄金時代も発動(大学・受容文化・陸軍限界の3つを達成)しました。
(実はうっかりしていて開戦翌年の発動ですが)
オスマンがどちらから来るのかわかりませんので、黒海東岸とペルシャの2方面に軍を配置してから襲い掛かります。
戦闘画面。規律は互角、士気はアドバイザーの分こちらが有利。
戦術もこちらが上回っています。
ペルシャ方面で山岳戦を避けようとしているうちにすり抜けてしまった軍が遠路Girinまで迫って慌てる一幕もありましたが
全体的には優勢に事を進め、戦勝点が50に届いたところで停戦しました。
山岳地帯の要塞2つ、平地の要塞1つが今回のターゲットです。
またイラクの種地も奪って属国開放しました。
オスマンと初の直接対決にも勝利を収めたモンゴル。
この後は順調な征服戦争が続きますのでトピックだけを駆け足で紹介しつつ18世紀に進みます。
1637年、10度目の直接戦線でついに明を滅ぼしました。帝位がなければ残す意味もありません。
1645年、第4次ロシア戦争の結果。
今回はReconquestCBを採用し、3つの属国へありったけの土地を戻させました。
1646年、ボヘミアの同君連合下にあったポーランドの独立を支援。別れている方が外交も征服もしやすいので。
1650年、工業化は北京で発生。
1651年、第2次オスマン戦役。CBはイラクの旧領回復。停戦は1654年でした。
本当はアストラハンの旧領回復もする予定でしたが、戦争中に併合が完了してしまう計算違いが。
奪った要塞は3つ。シリアとクリミアを属国開放しました。
1665年、ペルシャ地域の領土を奪うため朝貢をこちらから外したオマーンに宣戦しました。
ちょっと予定外だったのは、モンゴルの保護がなくなるとすぐオスマンに侵攻されて、ペルシャ地域が飛び地になってしまったこと。
うっかり敵軍を補足し損ねたため、飛び地の2州では戦勝点が9%にしかなりません。
第3次オスマン戦争を開始してからようやくまともに戦勝点を稼ぎ、アラビア半島の領土も奪って停戦となりました。
その第3次オスマン戦争は1668年~1670年。
この回からオスマンはキルワと同盟を締結。
アフリカ東岸の大勢力となっていたキルワはなかなか油断ならない兵力を送り込んできます。
加えてオスマンはオーストリアと先に戦争を開始していてバルカン半島はそちらに制圧されたため、意外に戦勝点を伸ばせません。
結局戦勝点40%で停戦、クリミア・シリアの旧領回復とホルムズ海峡の通路確保のみの戦果でした。
弱った相手を叩くときはハイエナ参戦はむしろ回避すべきというのがこの回の教訓です。
停戦期間が終わったのちアユタヤが貢納を渋るようになったので朝貢要求を撤回。
1671年、宣戦。以後順次叩いてゆきます。
1674年、東欧戦略を再検討しました。
The Great Khanの実績達成にはPonticSteppeの領有が必要なのでルテニアを朝貢国から外して土地を奪う必要があります。
となると、これまであまり意識してきませんでしたが、列強の一角であるポーランドと隣接することになります。
もう一つの目標であるBack in control達成には中華皇帝位が必要なので
朝貢させるなり、退場させるなり、天命への影響を踏まえた対処を検討しなければなりません。
いずれにせよこの先ポーランドを叩く必要があります。
ならばルテニア叩きを最小限にする意味もありません。。
1684年、朝貢を外したルテニアに宣戦。PonticSteppe以外にも大きく土地を奪いました。
勢いのまま1690年、ポーランド侵攻。
が、信仰の守護者だからとスペインが付いてきてしまいます。
4年間戦って、スペイン陸軍が姿を見せた時点で停戦。
戦勝点は22%しか得られず、将来に向けてモルダヴィアとリトアニアの種地を奪ったのみに終わります。
コンスタンティノープルへの陸路が確保できた点はよかった。
1700年、啓蒙主義がポーランド領のモルダヴィア州で発生。