無事に海西女直を征服し封建主義を受容したモンゴルですが、既に西方でルネサンスが発生しており自力開発で伝播させる必要があります。
また次の植民地主義については同様に自力開発するか、あるいは初手のアイディアに探検を選んでアラスカ等に植民地国家を成立させる必要がありますが、後者では伝播が遅れますので自力開発の方が現実的です。
(一度トライしましたが、ペナルティが50%になったころにようやくアラスカが成立。
振り返るに植民方針が不徹底だったとも思いますが、いずれにせよアイディア枠とは見合わないかなと)
ところで、モンゴルの首都はステップにあり、開発コストに20%のペナルティを受けます。
首都の周囲も同様ですのでこれらの州を開発するのは効率が悪いと考えました。
いい地形がないか検討したところ、旧海西女直領であるGirinとYeheが2州隣接して草原地形でした。
草原地形はボーナスこそありませんが、ペナルティも0。
比較的早期に獲得可能な土地でこういう場所はほかにありません。(農地まみれの明がうらやましい・・・)
これらを踏まえ、将来首都をGirinに移転することを決めました。
ただ直接フルコア化しようとするとAdmコストが重いうえ、反乱への対処も気にしなければなりません。
そこで一度海西女直を属国開放することにしました。
君主点が欲しいので、Girinの所属するSouthJilinエリア以外はRazeしたうえで解放したところ、関係性はマイナスですがそこまで悪化せず、開発度による自由欲求を抑え込める結果となりました。
ペナルティが増える前にできるだけ技術を進めるため、アイディアの取得は後に回しました。
ペナルティが30%になった1480年の12月になんとか全技術が7に到達し技術アップを停止(一番遅れたのはやはり統治技術でした)。
最初のアイディアを取ったのは既に2つ目のアイディア枠が解放された後の1483年で、Influenceを選択。
その2年後に2つ目のアイディアとしてQuantityを取得しました。
ただ、開発コストも取っておかなければなりませんのでアイディアはあまり進めず、Influence4つ、Quantity2つまでを取るにとどめました。
海西女直の外交併合が完了したのは1499年の4月でした。
これにより総開発度が300を超え、国家ランクを王国にアップグレード。
それにより得た威信で受容宗教を儒教に変更しました。
さらにSouthJilinエリアをステート化して満洲文化を受容。これで首都移転の準備は整いました。
統治点を200消費して首都をGirinに。
Edictも使って開発コストを下げてから一気に開発(17→39)。
ギリギリでしたがこの1州でルネサンスが10%に到達し、無事受容することができました。
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なお、交易中心もGirinに移ったことで貿易収入が悪化してしまったので、外交点100を追加で払ってこちらは旧首都に戻しました。
(交易収入は4.00→8.49に回復)
海西女直の併合を待つ間、モンゴル軍は草原を東奔西走していました。
とはいえ基本的には国力の劣る周辺国を順次叩いて行くのみなので、注意を要したのは朝鮮との初戦くらいです。
奪った州はどんどんRazeして君主点を吸い上げつつHordUnityを高く保ちます。
また和平の際はHumiliateも積極的に選択してPPも常時50以上をキープしました。
1491年12月、外交併合コスト減のアイディアを取ったので海西女直の外交併合を開始し、前述のとおり1499年4月に完了しました。
いよいよ独立を視野に入れた行動を開始します。
以下、この間の行動を駆け足で。
1457-1460 野人女直征伐。2州獲得。
1461-1463 遼州女直征服。朝鮮に痛めつけられた後だったので全土を併合。
(この頃オイラートがチャガタイ・KARA DELからそれぞれ宣戦され、国土をかなり減らす)
1466-1467 ホルチン部征伐。南方の4州を獲得。
(1468 オイラートに接したブリヤート部がオイラートの北部領土を併合。文字では分かりづらいので画像掲載)
1469-1470 ブリヤート部を叩いて旧オイラート領を回収。ブリヤート部は再び流浪の民に。
(チャガタイがまた明に叩かれたので開戦を検討するが、ウズベクと結んでいるので断念)
1472年、新君主即位。能力は(5.6.1)。待ってた! もう47歳だけど。
ようやくAdm3以上の君主となったのでプラス効果のあるDecisionをあれこれ採用。
安定度コスト-20%の代わりに年間威信+0.5の物だけは見送る。
1473年、常備兵力が朝鮮を上回ったので宣戦(15k:14k)。
国境周辺は多くが山岳地帯なので、悪い地形での戦争は避けられないと考え傭兵を多めに雇用。
とはいえできるだけ草原を選び、山岳戦闘は一度のみ。無事全勝。
1476年、国境の要塞2つと旧遼州領2州を奪取して停戦。
1481-1482 野人女直征伐2回戦。豊かな2州を獲得。
1483 1州のみになっていたオイラートを完全併合。
1484-1485 チャガタイ征伐。ウズベクはティムールと争っていて参戦しない。占領地で反乱が湧き始めたのでHumiliate+1州で停戦。
1488-1491 朝鮮征伐2回戦。こちらもHumiliate+2州。
(1491 朝鮮戦中に君主崩御。後継者は(5.3.2)。こちらも優秀。)
1493-1494 ホルチン部へ3度目の宣戦。1州を残して3州獲得。
1495-1496 ウスベクへ宣戦。Humiliate+3州獲得。
1497 チャガタイに宣戦。YARKANDの宗主国が明に移っていることに気づく。同年中に3州獲得して和平。
(駆け足おわり。)
かくして、1499年末の時点でモンゴルの領土はこのようになりました。