1740年、天命が100になっていることに気づきました。増減は+0.63/月。
皇帝になったころは天命の増加もわずかだったので改革は行わないつもりだったのですが、
折角の中華皇帝位だし、6年半ほどで回復するならどこまで進められるか試みてもいいかもしれないと考えなおしました。
というわけでこの年に第1弾を実行しました。
1740年末、白紙で分離和平しておいたシレジアとの停戦が切れました。
いよいよ本格的に旧HRE地域の侵略を開始します。
下準備として、このタイミングでカトリックを受容してみました。
先に書いたカトリック国との関係向上も狙いの一つでしたが、
もしかしたら信仰の守護者が出張ってこないかもという期待も込めていました。
ただ先に結論を言えばこちらは駄目でした。
また外交では朝貢させられないイギリスと同盟を締結しました。
AEの蓄積を避けることが狙いです。
準備が済んだところでシレジアにボヘミアのReconquestCBで宣戦します。
シレジアの同盟国からはザルツブルグとロレーヌが参戦。
真の狙いはザルツブルグが持つバイエルンとボヘミアのコアなのでこれはオッケーですが、
もう1国、スペインが信仰の守護者として参戦してしまったのでなかなか戦勝点が貯まりません。
遠くスペイン領まで遠征するのは国力にもプレイヤーにも負担すぎる…。
どうしたものか迷ったのですが、ザルツブルグとは分離和平することにしました。
この場合コア返還でも戦争目的外扱いとなりますが、戦勝点は99%で交渉できます。
次のオーストリア本格解体を睨んで、
飛び地をなくしつつバイエルンをオーストリアに接触させるというのが交渉のテーマでした。
1743年、オスマンがオーストリアに宣戦します。
先の元との戦争で飛び地となっていたオーストリア領を狙ったのでしょう。
余計な状況ですが、仕方がないので推移を見守っていると、どうやらオーストリアの方が押し気味。
これならオスマンに占領の邪魔をされないと踏んで、1744年、オーストリアに仕掛けます。
ザルツブルグはオーストリアとも同盟しているため律儀に参戦します。
こんどこそ いっぱい とちをもらうぞ。
東から西へとゴリゴリと塗りつぶして1746年2月、戦勝点78%で停戦。
大量20州を奪取。
過剰拡大は135.5%にも上りますので、ハンガリー、ボヘミア、バイエルン、そして新たに解放したブルゴーニュに渡してゆきます。
AEは最大121にも届きましたが戦争当事国と教皇庁しか大きな影響を受けていません。
HRE解体時から狙っていた通りの状況です。
さて、停戦直後から休む間もなく元軍は移動を始めていました。
配置が完了した半年後、今度はオスマンに宣戦します。
オスマンの主力はオーストリア軍を追いかけて欧州中部にまで釣り出されており、本国にはわずかしかいません。わっはっは。
(わかりづらいですが、青矢印の先がオスマン陸軍)
オスマンは慌ててザルツブルグと停戦し軍を引き戻しますが、バルカン半島にはこちらの主力がいるため黒海東岸まで迂回する羽目に。
この間に十分に戦果を拡大した元は、ようやくアナトリア半島東部まで帰還したオスマン主力を待ち受けて撃破しました。
(国力差はもはや正面から戦っても余裕なほどに開いていますが、そこはご愛嬌)
1749年、停戦交渉の結果はこの通り。
ところで、しばらく前から黒海沿岸の各州で元軍は大型艦の製造に取り組み始めていました。
備えていたのは対スペイン、そして将来の英国との戦争です。
1751年、大型艦が累計55隻に達したところでいよいよスペインとの直接対決に打って出ました。
間にあるプロヴァンスは植民地を持つため朝貢国にできず、外交枠を使って軍事通行権を得ています。
相手の植民地が多いこと多いこと。。。
海軍に期待してイギリスを引っ張り込みましたが、プロヴァンスと戦争になったのか、あるいはすでに戦争中だったのか、
結局スペイン相手には1兵も失わないまま3年後に白紙で分離和平しやがりました。
この頃イギリスは相当に弱っていたようで、1755年には属国だったレンスターの独立を許したばかりかアイルランドの大半を失っています。
援軍を期待するなら相手の状況もチェックしておかないとダメでした。
それはともかく、スペイン戦。
兵力を集中してピレネー山脈の東西からイベリア内部へ、ゴリゴリと塗りつぶしてゆきます。
イタリア方面も分遣隊で制圧。
その後5隻だけ作ってあった輸送船で分遣隊をピストン輸送してサルディニア島の要塞を攻め落とします。
1756年、海軍の支援の下ジブラルタル海峡を渡った頃にイベリア半島内で大規模な蜂起が発生。
これを機に停戦しました。
スペインは直接接するには大きすぎるので、イベリア半島はポルトガルとカタロニアを開放して委ねました。
この和平でプロヴァンスのAEが一気に-126まで悪化。
次のターゲットに決定です。
プロヴァンスはスペインに独立保証されているため、旧スペイン領のコア化が終わるのを待って1758年、プロヴァンスに宣戦しました。
朝貢国であるトスカーナも向こうについてしまいますが仕方なし。
一方、この戦争が終わればそろそろイギリスにも仕掛け時。
せっかくたまったFavorを使ってこちら側で参戦させます。
スペインはアフリカにも広大な領土を持つため、先に和平しておかないと戦勝点が貯まりません。
イベリア半島は優先的に占領を進め、1760年、まずはポルトガルの旧領1州だけ奪って分離和平しました。
翌1761年トスカーナとは白紙和平。これで戦勝点は99%。
欧州のプロヴァンス領をすべて奪って停戦します。
1州はイギリスに持っていかれてしまいましたが、プロヴァンスを欧州から消す方を優先しました。
戦後イギリスとの同盟は破棄しました。
同年、今度はオスマンに宣戦。2年後にアナトリア半島およびエーゲ海に残っていたオスマン領をすべて奪取。
これが最後のオスマン戦となりました。
1764年、オーストリアおよびザルツブルグとの停戦が明けました。
オーストリアは元の朝貢国にも多数の同盟先を持つうえにDipRepが高く、こちらに仕掛けると多数の朝貢国が離反します。
一方ザルツブルグの同盟相手はオーストリアとコローニュのみ。
仕掛ける相手はザルツブルグに決定です。
1765年、18州を奪って停戦。
1766年、スペインに再び直接仕掛けます。
今回はジブラルタルをはるかに越え、アフリカ中部まで制圧。
さすがに時間がかかりましたが、1772年、イベリア半島全土を奪い取りました。
ついにスペインを欧州から追い出しました。
これでユーラシア大陸内には外部に大勢力を持つ国はありません。
あとはもう最後の仕上げです。
1773年、いよいよイギリスに仕掛けます。
当初はブリテン島上陸作戦を行うべく輸送艦を増産してあったのですが、よく考えたらレンスターは朝貢国でした。
予め十分な分遣隊をアイルランドに上陸させておいて、欧州本土と2方面から侵攻。
1776年、朝貢を強制して停戦しました。
1780年、前回と同じ理由でザルツブルグに宣戦しました。
オーストリアとコローニュが今回も帯同します。
1781年、まずはオーストリアを朝貢国化。
続いてコローニュ。
最後にザルツブルグ。
仕上げとして、各国に資金を提供して国力の差を思い知らせ、反乱など考えられないようにします。
今はまだ敵愾心が優っていますが時とともに彼らの気持ちも落ち着くことでしょう。
これでユーラシア大陸は全て大元帝国の支配下に収まりました。
教皇庁を属国化した直後にこんなイベントが。
一瞬、Yuanの国教が変わるのかと焦りましたが、よく見たらYaranでした。1州が改宗するだけですね