AAR/ポーランドは未だ滅びず

第六章 ヨーロッパを統べるもの

大戦後の各国戦略

アントワープ大戦を経て、各国の戦略は大きく様変わりしました。
ハプスブルク連合に挑む度に国力を削がれてきたフランスは燃え滾る復讐心を抑えてヨーロッパ方面での拡張を基本的には断念し、新大陸・アジア方面の進出に舵を切りました。

しかし、旧イングランドの植民国家を合わせて新大陸の半分以上に植民国家の地盤を持つ海洋国家ポルトガルがこれに黙ってはいません。
両者は海外領土をめぐって衝突を繰り返すようになりました。

一方、オーストリアはハプスブルクの栄光も結局はコモンウェルス頼みでしかなかったことを痛感し、単独でフランスに対抗できるだけの国力をつけるべく、悲願の神聖ローマ帝国の統一を急ぎます。
度重なるフランス相手の防衛戦争で皇帝の権威を稼いでいたオーストリアは6番目の改革を通し、神聖ローマ帝国の世襲権を手中に収めます。

コモンウェルスは自由に動けるようになると滅亡寸前まで弱ったデンマーク及びノブゴロド両国に侵攻して属国化し、それぞれのコアを回収した後に併合していきました。
デンマークを併合した後、コモンウェルスは主要貿易港をリューベックに移し、交易でも世界でトップに立ちました。

バイエルン及びバルカン問題

バイエルンは微妙な立場にいる国でした。

オーストリアの強大化を歓迎しないバイエルンはフランスと同盟を結びオーストリアを牽制していましたが、数度に渡ってオーストリアに領土を削られ、わずかミュンヘンを含む2プロヴィデンス国家となり、最終的にコモンウェルスの属国になっていました。
しかし、バイエルンのコア州3つはオーストリア領内に残ったままであり、バイエルンは度々コモンウェルスにコアの奪還を要請してきていたのです。
コモンウェルスとしてはオーストリアと300年以上にわたって同盟関係にある以上それは無理な相談でしたが、バイエルンを挟んで間接的に領土問題を抱えていたと言えます。

一方、バルカン半島においても問題が生じていました。
コモンウェルスは属国としてセルビアを建国し、コアの回収に勤しんでいましたが、セルビアのコアのうち3つをオーストリアがオスマンから奪っていたのです。
さらに、ハンガリーのコアがあるPozonyはハンガリーがコモンウェルスの属国になる前からオーストリアの手に渡っていました。

つまり、オーストリアはコモンウェルスの属国のコアを計7つも抱えていたわけです。
この事実を外交問題化したくない両国はこの話題に努めて触れないようにしてきました。

しかし、ついに均衡が破られる出来事が起きたのです。

神聖ローマ帝国の誕生

オーストリアは7番目の改革を通過させ、全ての帝国の構成員を自身の属国とすると宣言しました。

15州以上を領有していたアルザスや皇帝と対立関係にあったハンザ同盟やエノーは帝国からの脱退を宣言します。
コモンウェルスが神聖ローマ帝国領の約4分の1を領有していた上に、脱退する国が出たことで本来の半分以下の大きさでしたが、コモンウェルスと比肩しうる勢力の誕生の瞬間でした。

さて、最大の問題はバイエルンでした。
コモンウェルスの属国だったバイエルンですが、この改革でオーストリアの属国に組み入れられ、コモンウェルスの宗主権を受け付けなくなっていました。

突然属国を奪われた格好になったコモンウェルスは激怒し、オーストリアに対し猛抗議しました。
これに対しオーストリアは、バイエルンがコモンウェルスの属国である前に神聖ローマ帝国の一員であること、バイエルン自身が帝国改革を支持していたこと、バイエルンのコア州が結果的に神聖ローマ帝国の名のもとに統一された方が領民のためであること、を挙げてコモンウェルスのバイエルンに対する宗主権を真っ向から否定しました。

最初の2つはともかく、最後の理由を堂々と挙げたことはこれまでの両国の外交努力を台無しにするものとコモンウェルスは受け止めました。
両国の国境で緊張が高まっていく中、ついにオーストリアは最後の帝国改革を実現し、神聖ローマ帝国に生まれ変わります。

ハプスブルク連合の崩壊

神聖ローマ帝国誕生に際し、儀礼上コモンウェルスからは祝いの使者が派遣されましたが、それが本音でないことは誰の目にも明らかでした。
それに対し、神聖ローマ帝国は形ばかりの返礼を済ませると、重大な発言をします。

オーストリア時代から神聖ローマ帝国はコモンウェルスがドイツ地域で拡大していくのを常々苦々しく思っていたのですが、コモンウェルスの圧倒的な力を前にいわば黙認していた状態にありました。
しかし、もうその必要はないと判断したのでしょう、コモンウェルスに旧神聖ローマ帝国領の返還を求めたのです。また、その場で同盟の破棄を言い渡しました。

コモンウェルス大使は一言こう答えました。
次は戦場で会おう、と。

300年以上続いた同盟関係は音を立てて崩れ落ちたのです。

ハプスブルク戦争

対立が決定的になった以上、コモンウェルスは神聖ローマ帝国にゆっくり準備の機会を与えるつもりはありません。
電撃的にウィーンに攻め入り、瞬く間にこれを占領してしまいました。

同盟を破棄したといっても、いきなり戦端を開く覚悟まではなかった神聖ローマ帝国は大混乱に陥ります。
開始1年もすると、ハンガリー及びセルビアのコアを全て返還する条件で講和してほしいと泣きつく有様でした。

しかし、コモンウェルス大使は冷たく言い放ちました。
我らがドイツ領を奪い取ってみせると豪語した威勢をもう忘れたのか、我々ははっきり覚えているぞ、と。

強力なNIを持ち、offensive、defensive、aristocratic、qualityと4つの軍事系アイディアをコンプリートした上に、Militia Actのポリシーで規律を底上げされたコモンウェルス軍の前に神聖ローマ帝国軍はあまりに脆弱でした。
神聖ローマ帝国軍の兵士に言わせれば、それはもほや戦争ではなく、虐殺と呼ぶにふさわしいものでした。

神聖ローマ帝国軍がほぼ全滅したのを見て、オスマン帝国も神聖ローマ帝国に宣戦します。
手早く2州を奪い、久方ぶりの勝利に気炎を上げました。

コモンウェルスはハンガリー、セルビア両国のコア返還に加え、Ostmark、Krain及び神聖ローマ帝国がバルカン半島に持つ領土全ての割譲、オスマン帝国に割譲された領土をコモンウェルスが獲得した場合の領有権の承認を講和条件として突きつけます。
オーストリア時代はには3世紀以上の間、外国に領土を割譲することはありませんでした。
しかし、コモンウェルスと敵対した途端、屈辱的な講和条件を結ばされることになったのです。

生まれたばかりの神聖ローマ帝国の威信は地に堕ちました。

ヨーロッパを統べるもの

1821年のコモンウェルスは世界最大の領土、世界最大の陸海軍、最大の総収入と交易収入を持つ国としてヨーロッパに君臨していました。

統治技術、外交技術、軍事技術はそれぞれ32レベルに達し、騎兵戦闘力にいたっては53%強化されています。

コモンウェルスは幾度の試練の時を乗り越え、ヨーロッパを統べるものとしての地位を手に入れたのです。

第七章 あとがき


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