タウングーが独自の歩みを始めたのは、1444年当時の領主から7代後のMingyi Nyoが
1510年にタウングーと呼ばれる街に城壁を巡らせ、Avaの宗主を無視して勝手に戴冠した時とされている。
その後20年に渡りAvaの干渉を押しのけ、息子Tabinshwetiの代にはペグー、アラカン、アユタヤの勢力を展開した。
Avaの王位も手に入れてビルマの統一目前となるも1550年に側近に暗殺され、国は後継者が争う内戦状態となる。
日本の京都と同じような権威を持っていた王国の中心地タウングーにいたBayinnaungは転戦を繰り返し、3年後にはビルマ領域の統一を達成した。
勢いに乗った王は31年の治世の間に北のShan States、東のLan NaとLang Xang、南のSiamを退け、1581年に前後して東アジア史上最大の帝国を築き上げる。
しかし当時アジアに到達していたポルトガル商人に”拡大しすぎた帝国”と呼ばれていたように各地に火種はくすぶり続けていた。
Bayinnaungの死後、長男のNandaが後を継いだものの、その軍事力と個人的関係で結びついていた帝国はもろくも崩壊。
一時復興したが18世紀にMon族の再興ペグー朝、コンバウン朝に滅ぼされ、歴史から退場することとなる。
周辺部の征服にひと段落付けたこの世界戦でのBayinnaungとともにビルマ中央部の平定に乗り出します。
まずは友邦を失ったKaleを、続けてAvaと結んでいるHsenwiに宣戦を布告し、
1年とたたずして併合を果たします。
その結果ビルマ中央部が完全に掌握され、かつてのパガンが納めた大地はTaunguの手で統一されることとなったのです。
ビルマの統一を果たし他Taunguの前に立ちはだかるのは、長年のライバルでも異国からの侵入者でもなく、その伸張を助けたAyutthayaでした。
もともとの計画はAyutthataが保護しているLan Naに宣戦布告し、同盟から鞍替えし領土を奪う予定でした。
しかし、Lan Naと同盟していたAvaを滅ぼしたことでLang XangがLan Naに宣戦布告。
Ayutthayaが救援して早期にLang Xangを撃退。しかし戦争で兵を失ったAyutthayaはLan Naの保護を切ってしまいました。
時は1495年、同盟を破棄しても休戦機関には間に合いません。
やむなくTaunguはライバルに指定することでAyutthayaから同盟を破棄させ、
間髪入れずに宣戦布告。
休止状態にあったSukhothaiの要塞になだれ込みます。
画像は決断前。友好国の隣ということもあって戦争していないときは常に兵が0だった。
開戦から1年半がたった1496年12月には首都Ayutthayaも陥落、一挙に戦勝点を稼ぎます。
要塞の奪還を防ぎつつ周辺の占領を進めることで、翌1497年にはMon族が治める土地を獲得。
こうしてTaunguは史実に遡ることおよそ50年、同じ名を持つBayinnaungによって
民族の統一を果たしたのでした。
ビルマの征服によりいくつかのミッションを達成したことで、多くの請求権を得るTaunguですが、
しばらくは反乱鎮圧と周辺国(特にMing)との関係回復にいそしむ必要があります。
しかしすでに東南アジア最強でJaunpurとMingの後ろ盾を持つTaunguを止められるものはありません。
史実では成し遂げられなかったインドシナとインドネシアの統一も夢ではありませんが物語はここで幕を閉じ、
続きはBayinnaungの夢に託されるのでした。
パガンの栄光 完