エーヤワディーの河口に住むモン族は、パガンの崩壊と同時に東のスコータイ国王ラームカムヘーンの支援を受けて1287年に独立した。
はじめはMartaban、次いでPeguに首都を移したPeguの王ワーレルー自体は実のところビルマ族で、
ビルマに現存する最古の法典「ワーレルー・ダンマタ」を編纂したことでも知られている。
しかしその経済力の高さから次第にスコータイへの臣従を破棄し、スコータイ領のTavoy、Merguiを奪取した。
両地はのちにアユタヤに奪還されることとなるが、モン人が定着していたことでビルマ文化の統一を目指すTaunguに困難を与えることとなる。
最初の領土拡大に成功したTaungu。その同盟国PeguはKhmerと同盟を結んでいたため、Ayutthayaに蹂躙されていきます。
Tauguは戦力が期待できないPeguとの同盟を破棄し、次なる侵略先を豊かな低地ビルマに定め、逆にAyuttayaとの同盟を構築します。
1453年にPeguに宣戦布告し、豊かなエーヤワディー河口部を獲得します。
ただし一部をAyutthayaに奪われてしまい、これが後々まで尾を引くこととなるのです。
交易中心地であるPeguを手に入れたTaunguは国力増強と収入増大を目指し、Peguの開発を進めます。
Before
After。最終的には世界的港湾にまで成長。
国力増大によって北インドの覇者Jaunpurとの同盟に成功。
Tributaryの親玉たるAvaを避けた西回りルート、Bengal征服の足掛かりを得ます。
南のAyutthaya、北のJaunpur,そして面従腹背の宗主Avaで万全の体制を整え、
分裂状態にあるシャン族の土地の征服を開始します。
1465年、敵と共通する同盟国であるHsenwiの不参加のタイミングを見計らい、北ビルマ戦争を開始します。
また翌年、Renaissanceの受容を達成します。
ただし懲罰戦争にあくせくしている余裕のないTaungu。あまり多くの国から領土を奪うことはできません。
敵同盟国から賠償金をせしめたら宣戦布告相手の全土征服のみで許してあげます。
このあたりはShan族の治める土地であるため、反乱の防止を兼ねた共存政策に取り組みます。
そのおかげもあってかShan族はPeguのあるMon族に続く第2の文化集団となっていくのでした。(固有のBurmameseは3位。大丈夫か?)
Hsipawを下すとまた新たなエサがやってきます。
北のMong Yangは周辺国との戦争で領土を奪われ、同盟国は南のLan Naしかいない状態となっていました。
これ幸いと要塞を持つMong Yang並びにLan NaのChang Maiを奪い取ります。
南北に領土を伸ばし支配民族以外も厚遇し繁栄を謳歌するTaungu。しかし時はすでに1469年。
周辺国も地場を固めつつあり、かの国の前には常に戦争が張り付いていく状態が続くのでした。
AAR/パガンの栄光/2話 他民族共生を目指してに続く...