相互に同盟し固い結束のコプト教連合国に侵食されたアラビア半島をイエメンに取り戻すために宣戦。
1次戦争で同盟関係を破壊し、以後不定期に領土を削っていく。
アナトリアに残ったオスマンとDulkadirをようやく併合。
当初目的のひとつオスマン消滅を達成した。
(第1次オスマン戦以降のオスマンは周辺国が休みなく殴っていたため、皆の栄養源と成り果てていた)
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オスマンの超人スルタン、この世界では能力を活かせず |
アラビア建国に必要なプロビを持つオマーンへ宣戦。
同盟国もない孤立国家オマーン戦は消化試合であった。
オマーンを征服しアラビア建国に必要なプロビは全て獲得した。
統治技術も条件を超え、アラビア建国Decisionを押せる状態となった。
1570年のマムルーク |
ビザンティン、クリミア、左下の緑色国家は属国である。
キプロスの王とかいうイベントが発生し、キプロスが属国になった。
10年経過した後に併合した。
宗教改革発生、プロテスタント改革の中心が北部ドイツに集中したことでプロテスタント勢力は限定的になりそうだ。
クリミアノードへの影響力を得て将来的にはコンスタンチノープルノードでの収入増を目指してクリミア半島を征服したセオドロ、ジェノヴァへ宣戦。
カトリックを信奉する遊牧民クリミアを属国として建国し、外交併合を狙う。
ペルシャの勢いが良くコーカサスまで拡張してきたのでアルメニアを武力併合。
この後ペルシャは黒海まで勢力を伸ばす。
スルタンが長生きしたために後継者が先に逝ってしまう。
新後継者は正統性が低く、スルタン逝去により正統性は0になってしまう。
次代のスルタンに交代するまでの約20年、国内は反乱の嵐に包まれた。
(幸い国家独立やDisasterは発生しなかった)
今後の方針等
・引き続きコプト教徒の駆逐
・2つ目、3つ目アイデアはEconomic、Tradeを取得したが、拡張&併合を繰り返すならAdministrativeとInfluenceを取得すべきだったと後悔
(続く)