AAR/オラニエの交易自習室
前回:第三話 南部10州の領有権

第四話 インド洋貿易の支配者 (1600-1650)

もくじ

西方でのオランダの拡大

第二次オーストリア=オランダ戦争(1608-1611)

 シャヤカ=ハーンは再度南部10州の統一を掲げフランスのみならず新たな同盟国スペインをも引き連れてオーストリアに対して宣戦を布告した。オランダ・フランス・スペインの連合軍の前に成すすべもなく帝国軍は敗れ、1611年、オーストリアは南部3州をオランダの支配下へと譲渡することで和平した。

オランダの新大陸植民(1618)

 シャヤカ=ハーンは当初台湾を経由し北海道に植民を開始する予定であったが、スペインにより一足先に台湾の勢力圏化を宣言されてしまったためこの計画は失敗に終わった。東廻りルートを開拓していた者たちは職を失いこの失敗に対する不満を募らせていたためシャヤカ=ハーンはこれを払拭すべく開拓者たちを新大陸へと投与することを決めた。この結果1618年新大陸にオランダ植民地が成立しこの植民地との防壁はオランダの一つの大きな歳入元となった。

東インド会社の拡大

ティムール侵攻(1639-1641)

 新大陸植民との貿易により交易歳入の利益の大きさを測り知ったシャヤカ=ハーンは東インド貿易の本格化に乗り出した。シャヤカ=ハーンはあらかじめ植民地政策を充実させていた西アフリカと東インド貿易での重要拠点であるAden,Hormoz,Malaccaを含む西部東インド貿易会社及び東南アジア貿易会社の拡大を目標とするHAM政策を掲げた。シャヤカ=ハーンは手始めにHormozの支配を目的にティムール帝国に対して宣戦を布告した。この戦争ではオスマン帝国がイスラーム世界の防衛を謳ってティムールを援助したが、オランダと同じく東インドへの勢力拡大を目論むフランスとスペインがティムールの弱体化のためオランダを援助したため戦況は終始オランダの優勢となった。1641年、オランダはHormozの割譲とオスマン帝国との同盟破棄を強制しこの戦争は終結した。

第一次アユタヤ侵攻(1643-1644)

 西部インドに貿易拠点を築いたオランダは東南アジアでの貿易圏の拡大にも目を向けた。1643年オランダ軍30連隊がアユタヤ朝に侵攻しマレー半島の南半を占領。翌年Malaccaの領有権を認めさせることで停戦協定が結ばれた。

オスマン=オランダ戦争(1646-1654)

 引き続きAdenの獲得を目論みオランダ軍60連隊がアラビア半島南部に侵攻した。当時この地はイエメン王国の支配下にあったが、再びイスラーム世界の保護を謳いオスマン帝国がイエメンの側に立ってオランダに対して宣戦を布告した。早期にイエメン軍を殲滅しアラビア半島南端の一帯を占領したオランダ軍であったが、オスマン軍の高い軍事技術と戦力差の前に圧倒された。さらに紅海海戦で実に共和国の建国以来初となる海戦での敗北を喫し、戦況は膠着していた。しかし1654年、オスマン帝国と神聖ローマ帝国との国境紛争が激化して来るとオスマン帝国はこの対応に追われオランダにAdenの領有権を認めついに降伏した。

おわりに

しゃやか=はーんの休日

1650年の世界地図

第五話 東インド会社の拡大


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS