AAR/オラニエの交易自習室
前回:共和制帝国の成立

第三話 南部10州の領有権 (1550-1600)

もくじ

オランダの拡張政策

インド到達(1556)

 1556年、シャヤカ=ハーンが派遣した東廻りルート開拓のための艦隊は遂にインドを発見するに至った。しかしシャヤカ=ハーンは欧州列強、とりわけフランスとの軋轢を生じさせないためにこの地への勢力圏拡大は控え、引き続き探索艦隊には東進を命じた。

第一次オランダ=ポルトガル戦争(1557-1560)

 1557年ポルトガルは北アフリカに持つ旧領の奪還を名分にオランダに対して宣戦を布告した。この戦争は専らスペイン対フランスの体を成し、戦況は拮抗していた。3年の交戦の末功績を収められなかったポルトガルはオランダに対し賠償金を支払うことで和平した。

第一次オーストリア=オランダ戦争(1560-1564)

 植民政策が順調に進み安定してきたのを見計らったシャヤカ=ハーンは1560年のオランダ=ポルトガル戦争の終結に合わせてオーストリアに対してネーデルラント南部10州の領有権を主張し宣戦を布告した。1562年ネーデルラント南部に現れたオーストリア軍50連隊を打ち破ることでオランダ軍の士気は大いに上がった。そして1564年、シャヤカ=ハーンはオーストリアに対しフランドル地方の独立とブルターニュ地方の一部をフランスへ津城することを要求しオーストリアはこれに下った。

フランドル侵攻(1570-1572)

 オランダにより解放されたフランドルであったが、その豊かな土地と自身のナショナリズムからオランダの支配下に入ることは拒み続けていた。これを見限ったシャヤカ=ハーンは1570年ついにフランドルに対して軍事侵攻を行い2年をかけてその全土を征服し、これを属国とした。

第二次オランダ=ポルトガル戦争(1572-1576)

 北アフリカの旧領奪還を諦めきらないポルトガルは1572年再びオランダに対して宣戦を布告した。前回の戦争とは異なりスペインのみならずイギリスもポルトガルとの同盟を履行し参戦した。しかし先の戦争でのオーストリア軍に対する勝利によりオランダ軍の士気は非常に高くあり、ノルマンディー方面に上陸して来るイギリス軍を次々と撃退していき、さらにフランス軍もスペイン方面で連勝を重ねていた。この戦争はオランダ=フランス同盟の完勝に終わり、1576年にオランダはイギリスの持つネーデルラント地方であるArtoisをフランドルへ編入することを条件に和平した。

オランダ=オーストリア戦争(1587-1589)

 1587年、オーストリアは先の戦争でオランダに奪われた土地を奪還すべくネーデルラント南部に侵攻した。このオーストリアの侵攻に対しフランスはオランダとの同盟を破棄し援軍を送ることはなかった。オランダ軍は2年の間越境して来るオーストリア軍から自国領を守り抜いたが国力の限界を悟ったシャヤカ=ハーンはオーストリアに賠償金を支払うことで降伏した。

外交革命(1596)

 フランスとの同盟再締結には成功したもののその信頼性を危惧したシャヤカ=ハーンはフランスの動向を監視するためフランスの長年の宿敵であるスペインとの同盟を成立させた。さらに対オーストリアを重視して一度はブランデンブルクとの同盟も成立したが、こちらはネーデルラントに対する利権問題により決裂した。

カンボジア侵攻(1599)

 東シナ海まで到達した開拓艦隊一行はここに拠点を築くべく1599年カンボジアに侵攻し同年これを併合した。これによりシャヤカ=ハーンは東南アジア一帯の利権確保を目論むようになるが、この政策は後にフランスと対立するに至った。

おわりに

しゃやか=はーんの休日

1600年の世界地図

第四話 インド洋貿易の支配者


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