AAR/オラニエの交易自習室
前回:第一話 早すぎたオランダ独立戦争

第二話 共和政帝国の成立 (1500-1550年)

もくじ

ネーデルラント連邦共和国

第四次ユトレヒト懲罰戦争(1449-1502)

 ユトレヒトは順調にその版図を押し広げネーデルラント北部7州は完全にその勢力下にあった。しかしこの台頭を未だ歓迎できないものがいた。オーストリアである。神聖ローマ皇帝たるオーストリア大公国は1499年再びユトレヒトの懲罰を銘打ってこれに宣戦を布告した。しかしユトレヒト軍とフランス軍の優れた連携により帝国軍を敗退させ、この戦争はユトレヒト側の勝利に終わった。

ネーデルラント連邦共和国の成立(1512)

 第4次懲罰戦争により神聖ローマ皇帝に対する忠誠と畏敬の念を完全に失ったユトレヒト市民はシャヤカ=ハーンを中心とする帝国から独立した新たな国家の成立を宣言した。ネーデルラント連邦共和国の成立である。

フランス=イングランド戦争(1512-1517)

 連邦共和国の成立と時を同じくしてイングランドはフランスに対して旧領奪還を名目に宣戦を布告した。フランス軍は必死の抵抗を見せたがイングランド軍とスペイン軍による挟撃の前に屈し、全ての旧イングランド領を返還するまでに至った。

第一次オランダ懲罰戦争(1518-1519)

 フランス=イングランド戦争によりフランス主力軍が壊滅しているのを見計らったオーストリアは帝国からの離反を唱えたネーデルラントを懲罰すべく宣戦を布告した。フランスの援助なしで帝国軍には敵わないと踏んだシャヤカ=ハーンはホラントを独立させることを条件に降伏した。

植民時代の始まり

オランダ植民の開始(1519-)

 神聖ローマ帝国軍の前に敗北を喫したオランダであったがシャヤカ=ハーンの目は既にヨーロツパ外へと向けられていた。1519年アフリカ西海岸への植民を開始し、東アジアへの東廻りルートの開拓を始めたのであった。ここから数十年はホラント征服を除き武力による拡張政策は抑え、植民活動に専念した。

ホラント征服(1524)

 植民活動に専念したとはいえ独立させられたホラントを放っておくほどシャヤカ=ハーンは穏やかではなかった。1524年、ホラントのオランダ人のためのオランダ帰属を名分にホラントに侵攻し同年これを完全併合している。

フランス=スペイン戦争(1540-1544)

 しばらくは戦争とは無縁であったオランダ市民であったが、1540年スペインがフランスに侵攻を開始したことによりシャヤカ=ハーンはフランスとの外交関係維持のためこの参戦要求を受諾し参戦した。オランダ軍はノルマンディー方面での支援を行い上陸して来るイギリス軍の撃退に専念した。これによりフランスは大敗を喫することを待逃れ、1544年スペインとの間で白紙和平が成立しこの戦争は終結した。

おわりに

しゃやか=はーんの休日

1550年の世界地図

第三話


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