1466年頃の状況、Haasaは属国です。前回Hormuz戦に貢献したDawasirとの同盟は切れてます。
第1回でオマーン旧領を回復したのが1447年でした。
その後、Omanの北西に位置するHaasaが周囲から袋叩きにされ領土が縮小していたため宣戦し属国化、彼の旧領と異端プロビの統治を任せてます。(この後併合してます)
また、アラビア半島南部へも拡張しています。
次の拡張先ですが、アラビア半島はMamluksの影響下にあり、ペルシャ湾奥に位置するMushashaは勢力を維持しているQara Qoyunluと同盟中、北のペルシャ方面はTimuridsからの独立戦争が勃発した結果、Transoxiana、Khorasan、Sistanが独立を果たしていました。
アラビア半島やペルシャ湾奥地に向けての進軍は難しいため、対抗同盟を組み易いTimuridsを目標に設定し、Transoxiana、Khorasan及びインド北西に位置するMultanと同盟し、彼らの停戦期間が明けるのを待ちました。
1472年、Timuridsとの停戦期間が明けたTransoxianaとKhorasanに土地の約束をして宣戦しました。相手同盟国のJaunpurが気になりますが、主戦場から離れているしTransoxianaが被害担当になってくれるはずなので大丈夫!
5年に及ぶ戦争の末、Timurids領のほぼ全てを占領しました。
Timuridsで反乱が相次ぎ、Jaunpur領に攻め込む余裕もないため、終戦。
同盟2ヵ国の機嫌を損ねない程度に戦勝点を割きつつ、ペルシャ湾北岸6プロビを割譲させました。
1483年、Omanはイバード派に改宗済みの旧Timurids領に遷都します。
貯めこんだ君主点を注ぎ込みルネサンスを自力開発しました。
COTではないプロビなのでちょっと勿体ないですが、Oman旧首都があったアラビア半島は山と砂漠(と乾燥地帯)ばかりで開発コストが高くなるため、SSのプロビに遷都して開発しました。
新首都の地域(ステート)には他にもDrylands地形のプロビがあるため、第1回で紹介した「外交点50点と引き換えに首都ステートの開発コスト-20%」を植民地主義の自力開発に活用できるというのが遷都した理由です。
当地域の開発により文化割合が大きく変化するというのもこのプロビを開発した2つ目の理由です。
数合わせのために貧乏プロビをいくつかペルシャ文化に変更して植民地主義発生前に新生オマーン(オマーン人→ペルシャ人)が誕生しています。
旧世界の半分程度を征服する必要があることからOmanの弱いNIを捨てて強力な独自能力やNIを手に入れるためにペルシャ人化することは実績解除のために是が非でも目指したいところです。
なお、1つ目のアイデアは宗教を選択しています。
強力な聖戦CBに加えて実績解除と孤立宗教を信奉するOmanには欠かせないアイデアですね。
第3回へ続く