さて、時は少し戻って1600年の少し前、ふと気づくとPortugalがイスラム化していました。
このときのイベリア半島の情勢は次のようになっていました。
状況からAragon-France vs Castile-Portugalで争っていた隙に北アフリカを掌握したTunisが横槍を入れてきたのではと推測します。唯一イベリアに残るPortugal領土も一度改宗された後に反乱か戦争で返還されてスンニ派の反乱が起きたのでしょうか。
Aragonはこの後、イベリア勢力を駆逐し単独でSpain化しました。
なお、この世界では改革派がBrittanyで発生したため、Franceもイベリア半島も改革派に染まっています。復活しているGranadaも改革派になっていました。
Portugalはこの後いつの間にかキリスト教に戻っていましたがスンニ化したまま植民を行っていたため、面倒な戦争がひとつ増えてしまいました。
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東南アジア方面に幾つかスンニ派プロビがあり、全てがMingの朝貢国となっていたため、まずはMingに宣戦してます。終戦後すぐに朝貢国に宣戦して釣り出すいつもの方法で最終的に国土の半分程度を頂きました。毎回賠償金をがっつりもらっていたため、そのうち朝貢国へ援軍を出さなくなり、その間にスンニ派プロビを有する朝貢国に宣戦しています。
Mingはスンニ派プロビを持っていないので要塞付き首都であるBeijingだけ奪えば良かったかなと思います。
とにかくアジア諸国のスンニ派プロビは回収できました。(ブルネイがGreatBritainに占領されてます)後は主にTransoxiana、Ottomans、Tunis、西アフリカ諸国です。
既に圧倒的な帝国になったMughalsにとって、最大の敵であるOttomansですら消化試合になってしまっています。
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&(ottomans1.jpg);
&(ottomans2.jpg);
&(ottomans3.jpg);
1回目の対Ottomans戦もこういった感じです。
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1700年の世界情勢です。Spain、Vijayanagarと同盟しManchuは属国です。
この時点で異端プロビは幾つ残っているかと台帳を確認してみました。
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占領地の改宗が追いついてないですね、大丈夫なんでしょうか?
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教皇領が西アフリカに追い出されイスラム化していました。カトリックの権威は大丈夫ですかねぇ...。
第6回へ続く