外交枠が3つも超過しているのでCroatiaの外交併合を開始しました。
それと同時にCroatiaのコア回収も兼ねてBosniaに宣戦。
その後1州だけBosniaに残した状態で和平をしました。
そしてBosnia戦と同時並行で、Muscovyに宣戦布告
Muscovyは前回から続くSwedenからの独立戦争中で消耗しており、
その国土が広いといえども、楽な戦いが出来ると思っていました。
そして軍をそのMuscovy領内に進攻させていたそのとき・・・
奴らは我が軍の主力がMuscovy領内に深く入っていたが為、
西側の兵力が手薄になった、正にそのタイミングを狙っていたのです。
完全に囲まれている状況
それでも通常の会戦なら勝てる!
Muscovyと白紙和平をし、主力を急行させる
数々の激戦が各地で起こり一進一退の攻防が続く。、
しかし、敵の主力との会戦でその兵力差に敗北を覚悟。
こうなれば、傷がまだ浅いうちに講和することを選択。
オスマン領内の、Dulkadir、Ramazanの独立を条件とした、
屈辱の土下座外交で終戦をする。
この敗戦によりMuscovy侵攻は中断されましたが、
早期の講和によりマンパワーの損失は10,000程で済みました。
また独立された2国も、Turkish文化なのでオスマンコアが残ったままに
なるので15年後にまた併合すれば良いのです。
何とか前向きにとらえて行こうと思いますが、
憂さ晴らしのため、より積極的に領土を拡大ていくことにしました。
Mamluks、Tunisia、Makuria、Shammar、Tabarestan、
そしてまたSpain、Portugalを、ストレス解消とばかりボコボコにしていきました。
SpainやPortugalからは、Cape Verde等の孤島もいくつか奪っています。
1518年4月2日未明
もはや不死身か?とも噂されていたMehmed二世が遂に御崩御。
この稀代の名君の長きに渡る治世によって、
オスマントルコの世界征服は大きく前進したのでした。
そして跡を継いだMehmed三世は、
このわずか2年後に、父を追うように世を去るのでした。
1520年11月1日。
Mehmed三世の後を引き継いだBayezid一世。
彼は跡を継いだのが50代後半と高齢ながら、
今後20年以上オスマントルコの皇帝の座に座り続けるのでした。