AAR/「ローマ人の王」と7人の選帝侯

前回のあらすじ。
ヴラディスラフは破門されましたが、無事破門は解除され、すべての選帝侯に支持されるという偉業をなして1469年に死去しました。

ch.5 フェルディナンド治下において神々はたたかった

1469年に帝位を継承したフェルディナンドは、当時10歳であり、1474年に成人(15歳)になってはじめて親政を開始しました。
フェルディナンドがはじめに行ったことは、滅亡の危機に瀕していた聖職諸侯のいわば介護です。
ヴュルツベルグにマインツが、ベルグにケルンが、それぞれ攻撃されていちプロビ国家にこれら聖職選帝侯が没落していました。
そのためフェルディナンドはヴュルツベルグとベルグにそれぞれ宣戦し、コア州返還の講和交渉によって聖職選帝侯が滅亡して選帝侯が欠けることを回避しました。
1475年にはヴュルツベルグが、1477年にはベルグがそれぞれボヘミアに攻撃されました。聖職選帝侯がボヘミアに感謝したのは言うまでもありません。

1490年、今度は中央ヨーロッパで聖職世界を揺るがす事態が起きました。異端の聖職者ルターがプロテスタント運動をはじめたのです。

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ルター、95か条の論題をBayreuthの教会の門に貼り出す。

1490年にはじまったプロテスタント運動の中心地CenterはそれぞれBayreuth市、Ansbash市、そしてWeimal市といずれも中央ドイツの小国に偏っていました。
これに対して、1502年に宗教アイデアの「神の御心のままに」を獲得したボヘミアは隣国からCBを得て宗教戦争を開始します。
1503年にはボヘミアが宗教戦争に没頭している隙にブルゴーニュ公国が低地諸国に侵略行動をおこし、戦火はさらに拡大しました。
そしてブルゴーニュ軍の動きに対して低地諸国の抵抗運動が燃え上がり、1506年にはルクセンブルク公国のルクセンブルク家(ボヘミア王家の親戚です)があたらしい宗教改革運動に没頭します。改革派がここに誕生したのです。

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1506年の中央ドイツの宗教地図。Bayreuth市の宗教中心地は既に潰えた。西ではLuxenburg市で改革派の拠点ができる。

フェルディナンドはこの宗教戦争に疲れ果て、1509年に御年50歳で、息子の、成人したばかりのヴァスラフに家督を譲って引退してしまいました。
ゲーム的な事情を言えば、3-5-0の君主から4-2-2の君主に交代したのです。これは、筆者がこの時期軍事点を重視していたことに他なりません。

ともかく、ドイツの諸階級はともにひどく疲弊していました。
宗教者やそれと提携した貴族たちだけではなく、もっと大きな、下層の農民層まで巻き込んだ大戦争の足音が近づいていました。
後世からドイツ宗教戦争とドイツ農民戦争と呼ばれるようになる、いわば二重の大動乱のはじまりです。

(続く)


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